ネットで調べていて、12ステップやミーティングについての否定的な書き込みをたまに見ることがあります。
それらは主に2つの意見に集約されます。
一つは、ミーティングにおける分かち合いが傷のなめ合いでしかなく、回復の役に立たないというものです。
もう一つは、12ステップに取り組むことを強制されたというものです。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。
1.12ステップのミーティングとは、どんな場所か?
①ミーティングが傷のなめ合いの場所になっている
これが嫌でミーティングを離れる人は、ある意味では健全であると言えます。
しかし想像していただきたいのですが、ミーティング参加者の皆が皆、はじめから終わりまで12ステップの話しかしないとしたら、気持ち悪くないでしょうか?
ありのパパは、そのようなミーティングは味気ないと感じます。
生身の人間なのだから、たまには泣き言や愚痴があっても仕方がないと考えます。
一般的な傾向として、男性は12ステップの話をする人が、女性は身の上話をする人が多いように思います。
初期の頃のAA(アルコール依存症者の自助グループ)の参加者はほとんど全員が男性でしたから、ミーティングでは12ステップについての分かち合いが行われるのは、ある意味では当然のことでした。
しかし現在では、グループや依存症の種類によっても異なりますが、女性が多くを占めるようになっています。
このような状況で「12ステップの話だけしよう」というのは、あまり現実的ではありません。
②泣き言を言い合っていて、回復はあるか?
泣き言自体が問題なのではなく、それが自分自身の中でどのような位置づけをされているかが真の問題です。
たとえば「今日こういうことがあったのでミーティングでおろしたい」と言って話し始めたとします。
これが単なる「毒吐(は)き」だとしたら、少しも回復の役には立ちません。
それで、いつかは自分でも嫌になってミーティングに参加するのをやめてしまうでしょう。
③共同体から離れるとどうなるか?
依存症の解決策は、12ステップに取り組むことによって与えられる『霊的目覚め』と、共同体から受け取る『助けと支え』の2つです。
この2つのうちのどちらか一つでも欠けるなら、回復は損なわれます。
アルコール依存症者は再飲酒し、怒り依存症者は再び怒りの爆発に襲われる危険が増大します。
④共同体から離れても、ソブラエティを維持している人もいるのでは?
ありのパパ自身はそのような人を知りませんが、もちろんそのような人がおられる可能性はあります。
2つの理由があります。
一つは物理的な理由でミーティングに参加できない場合です。
病気で入院している人や、老齢や障害のため出歩くことが困難である場合もあります。
もう一つは、その方がそもそも依存症でなかった場合です。
たとえば、アルコール依存症ではなく、単なる大酒飲みだった場合です。
この場合、酒を飲まないでいる力が自分のうちにありますから、飲まないでいることは理論的には可能です。
一人のアルコール依存症の方にお話を伺ったことがあるのですが、この方は回復を果たした後で「俺ももう一回、他の人と同じような飲み方が出来るんじゃないか?」と思ったそうです。
それで飲んでみました。
そうしたところ、なんと普通の人と同じように飲めたそうです。
それで「何だ、俺、治ってた」と思ったそうです。
しかし一年以内にアルコール依存症の再発のために体も心もボロボロになりました。
それでこの方は「皆さんは、こんなバカなことを試さないでください。私が皆さんの代わりに試してみて、もうすでに答えが出ていますから」とお話になります。
怒りの爆発という問題に限って言えば、怒ろうとしたときに、すぐに怒り度合いがマックスになってしまう経験をした人が、回復したのちに自分のことを「私は怒り依存症者ではなく、怒りん坊に過ぎなかった」と考えるのは、大変危険なことです。
このような状態は大変脇が甘くなった状態というか、無防備な状態ですから、いともたやすく敵の侵入を許してしまうことになります。
2.共同体(自助グループ)と12ステッププログラムの関係
①そもそも共同体が先か、12ステップが先か?
これはもちろん12ステッププログラムが先にあったのです。
そして、この12ステップに個人的に取り組む人々の共同体として自助グループができたのです。
しかし年月がたつにつれて段々と共同体が変質していきました。
共同体の中に12ステップに徹底して取り組んだことのないメンバーが増えてきたのです。
これはある面ではやむを得ないことです。
どんなものであっても形骸化することから自由であるものは存在しません。
それで何とか12ステップに取り組む人々をもう一度増やそうという願いが起きてきました。
②12ステップに取り組むのは強制か、それとも自由参加か?
善意からかもしれませんが、他のメンバーに12ステップに取り組むように強制するような言動をする人々がいます。
しかし、これは共同体の原則から逸脱した行為であると言わなければなりません。
メンバー同士は本質的に対等ですから、誰かが誰かに何かをやることを押し付けるということがあってはなりません。
③12ステップの手渡し方
ご自分が12ステップによって回復した経験を分かち合えばよいのです。
そうしたら「自分もそうなりたい」と思う人が与えられます。
要するに、追い込むのではなく、引き寄せるのです。
3.なぜ強制するのか?
①強制する背後には「病的な支配欲求」が潜んでいる
病的な支配欲求とは「みんなは自分の思ったとおりに動くのが最善であり、そうすべきだ」という病的な思い込みのことです。
これは恐れの反動形成から来ています。
心が健康な人は恐れずに正直な心で相手のところに行って「私はこうするといいと思うんだけど、あなたはどう思う?」と聞きます。
その結果、受け入れてもらえるときもあれば、喧嘩になるときもあるでしょう。
これに対して、心に恐れがある人は、人が怖いので不正直な対応をしがちです。
この場合、不正直な対応とは「こちらからは何も働きかけない」ということになりがちです。
それで自分の願いを放棄すれば問題はありませんが、人というものはそんなに簡単ではありません。
どうなるかというと、自分がそのための努力を放棄したという事実は棚に上げて、自分の願いだけが一人歩きします。
その結果「あの人は、こうすべきである」という、とんでもない支配欲求が心の中に生み出されることになります。
②病的な支配欲求への対処の仕方
病的な支配欲求に対して無力を認めます。
そして自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じます。
それに続いて、自分の意志と生き方を自分なりに理解した神の配慮に委ねる決心をします。
神に委ねるとは、この場合は何を指しているのでしょうか?
それは恐れが動機となって不正直な対応をするという行動パターン(性格上の欠点)を使わない決心をすることです。
これがステップの6でやることです。
ではステップの7では何をやるのでしょうか?
ステップの7では使い慣れた古い手を使わず、新しい行動パターンを使い続ける決心をします。
③恐れが取り除かれるために神の意志に従う
ステップの6は「やりたいことをやらない決心」、ステップの7は「やりたくないことをやる決心」と言われます。
恐れとは、相手が自分を傷つけるのではないかという感情です。
この感情の中には「私は相手に対して、どのように行動して愛の人になるべきか?」という問いは含まれていません。
ですから恐れとは結局のところ、利己的きわまりない感情なのです。
要するに自分のことしか考えていないのです。
これと反対のパターンは「まず自分が相手にとって善い人になる」決心にほかなりません。
当然のことながら、自分が相手にとって善い人になろうと全力投球している間は、自分の中にある恐れを感じている暇はありません。
このようにして私たちは恐れから解放されることができます。
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」(聖書)
◎平安と祝福を祈っています。