敵意と憎しみの原因である「これが出来たら合格」主義とは何か?

今日は皆さんとご一緒に「これが出来たら合格」主義とは何かについて考えます。

1.これができたら合格主義とは我力(がりき)によって救いに到達しようとする生き方

「救い」という言葉を聞くと、多くの方は「自分には関係ない」と思いがちです。

しかし、救いとは宗教的なものばかりでなく、幸せを獲得しようとする生き方でもあるのです。

「これが出来たら幸せ」になることが出来ると考えるのが典型的な「これができたら合格」主義です。

たとえば「有名大学には入れたら、僕は幸せになれる」とか「ハンサムでお金持ちの男の人と結婚できたら私は幸せになれる」と考えるが我力で幸せを獲得しようとする生き方です。

このような生き方は一見、尊い生き方に見えます。
なぜなら努力は尊いと思い込んでいるからです。

しかし、決して努力してもそこに到達できないとしたらどうでしょうか?
やってもやっても到達しないのです。

そうすると心の中にある現象が起きます。
それは同じように頑張っている人への敵意であり、頑張っていない人への憎しみです。

2.頑張る人は頑張らない人を憎み、敵意を持つようになる

「ユダヤ人と異邦人との間にあった敵対という壁を取り壊し、ご自分の死によって、律法に起因している憎しみと敵意を取り除かれたのである」[エペソ教会への手紙2章14~15節]

ユダヤ人は律法を守ることによって救いに到達しようとしました。
ある時はまじめに一生懸命に、ある時は手を抜いてグダグダになりましたが。
それがふっと横を見ると(異邦人たちを見ると)律法も守らずのほほんと暮らしているではありませんか。
ユダヤ人たちは自分たちが行っていることは正しいことであり、命の道に通じると知ってはいましたが、やはり何もしないで享楽的に生きている人を見ると腹が立ってきて仕方がありません。

人間とはそのようなものです。
これがユダヤ人と異邦人との間にあった敵対の壁の原因です。
律法に起因している憎しみと敵意とは、そう言う意味です。
そういう訳で、がんばる人はがんばらない人を憎み、敵意を持つようになるというのは聖書が教えていることです。

キリストの十字架を信じることによって一足飛びに救いに到達できるのであれば、そもそも敵対の原因である嫉妬心が湧き起きるはずもありません。
それでパウロは「キリストこそ、私たちを和解させてくださるお方」と言いました。

3.病的な承認欲求があると憎しみと敵意をもってしまう

キリスト者にとっては父である神を信じるということは内面では親替えという作業をしていることになります。

アダルトチルドレンにとっても親替えすることによって強迫的な承認欲求から免(まぬが)れることができます。

しかし気を付けていないと表面意識では「私は承認されている」と認めていても、意識下で強迫的に承認を求めてしまっているということが起こり得ます。

これは真面目な人ほど陥りやすい罠ではあります。
ありのパパは真面目な人がもう我慢できないという表情で「私はあのいい加減な人を見逃すことができません」というのを何回聞いたか分かりません。

これは「私も承認されるために死に物狂いで頑張っているのだから、お前も死ぬもの狂いで頑張るべき」主義とでも言うべきものです。

これから解放される道は、毎朝の祈りと黙想の時間に「私はすでに神に承認されている。だからもう承認を求める必要はない。今までは承認されるために頑張ってきたが、これからはすでに承認されていることへの感謝のささげものとして今日一日をお献げします」と祈ることです。

◎平安と祝福を祈っています。

2件のコメント

  1. ありがとうございます。いなみです。
    脅迫観念ドンピシャリですね。
    びっくりしました。

    1. こんにちは、いなみさん。
      コメントをありがとうございます。

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