1.預言者エレミヤとユダの民の対立の真の原因
「ユダは本心ではわたしに立ち帰ろうとせず、立ち帰るような素振りをしただけであったと主は仰せられる」[エレミヤの預言4章10節]
この当時、主の民はイスラエルとユダに分かれていました。
この聖書箇所はそのユダに対してなされている預言です。
預言とは神が預言者を通して神の意志を伝えることです。
旧約聖書の時代にはこのような形で神の意志が人々に伝えられていました。
この当時の人々は現代に生きる人々と同じく「おまえの言っていることがどうして神からのものと言うことが出来るのか?」とエレミヤの言うことを信じようとしませんでした。
しかし彼らが信じなかった理由は、実は預言が神から来ているかどうかというところにはありませんでした。
真の理由は、自分の聞きたくない、耳の痛いことをエレミヤが言っているからというところにありました。
もしエレミヤが「あなたがたは祝福される。何の心配もいらない」と耳障(みみざわ)りの良い預言をしたなら、彼らは諸手(もろて)を上げてエレミヤを受け入れたでしょう。
2.エレミヤの預言の内容
エレミヤ以外の大多数の預言者たちは偽りの預言を行いました。
それは「2年以内に自分達の国を侵略しようとしている外敵は滅びる。だからユダの民は安心してよい」という内容でした。
これに対してエレミヤは「ユダの国は滅びる。民は奴隷として外国につれていかれる。それはあなたがたの犯した罪が原因である」と預言しました。
それで他の預言者たちと対立したのはもちろんですが、民とも対立しましたし、国の指導者たちに命を狙われました。
実際、エレミヤと同じような預言をしたもう一人の預言者は殺されてしまいました。
ですからエレミヤは非常なプレッシャーの中で預言者活動を行わなければなりませんでした。
3.エレミヤが言いたかったことの本質とは?
エレミヤは正しいことを預言しました。
ではエレミヤが預言者活動を通して言いたかったことは何でしょうか?
・無力を認める。
・神になら自分たちを健康な心に戻すことが出来ると信じる
・神に自分の意志と生き方をゆだねる決心をする
これらのことは時代を超えて、宗教を超えて、生命的に重要なことではないでしょうか?
回復したいと言いながら、実は万能感に満ちあふれており、ちっとも無力なんか認めてないということはないでしょうか?
私たちは回復がどうのこうのという前に、自分自身の無力をはっきりと認めているかどうかを確認する必要があります。
「わたしは認めています!」とおっしゃる方にお尋ねしたいことがあります。
それは無力を認めているなら、他者に対する批評・批判は止みますが、あなたはいかがでしょうか?
「私たちは弱いものだから」と言われますか?
いいえ、他者に対する批評や批判は弱い心からではなく強すぎる心から出てくるものです(笑)。
本当に無力を認めたら「あとは回復するだけ」となります。
それで自分自身の回復に専心しますので、他人のことなど目に入るはずもありません。
目に入るということは自分自身の回復に専心していないということであり、自分自身の回復に専心していないということは自分の無力を認めていないということにほかなりません。
「かたくなな心に御言葉の種をまいてはならない。主のために心の割礼を受けなさい。あなたがたの心は聖別されていない。だから神の裁きが下るようになる」[エレミヤの預言4章3節~4節]
◎心のかたくなさとは自分の無力を認めていない心の状態を指しています。
そして心の割礼とは自分自身の無力を認めている状態を指しているのです。
平安と祝福を祈っています。
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