あるべき親子関係について聖書から学ぶと、親子の問題は解決する!

聖書が教える親子の関係というものに関心はありませんか?
この記事では親子関係について聖書が教えている箇所を見ていき、現代に活かす方法を具体的に解説しています。

        

1.聖書が子どもに教えていること

①子どもは、主を信じる者として自分の両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだから。

②旧約聖書もあなたがたが自分の両親に従うことを教えている。

③この命令には祝福の約束が付いている。どういう祝福かというと『従うなら、あなたは幸せになり、長寿が約束される』というものである」

[エペソ教会への手紙6章1節~3節]

①信仰者としての子どもに聖書が命じていること

「両親に従え」という教えが親に向けて言われておらず、子供に向けて言われていることは注意すべきことです。
このエペソ教会への手紙を書いたのはパウロですが、パウロは教会に集う子どもたちに語りかけます。
親がクリスチャンだから、あなたがたもクリスチャンなのではない。
そうではなく、あなたがた一人一人は自覚的なキリスト者なのだ。
だから信仰者としてのあなたがたに私はお願いする。
「主を信じる者として、あなたがたの両親に従いなさいと。あなたがたが自分の両親に従うとき、それを神がご覧になって喜んでくださる」

②旧約聖書も命じている

この当時は聖書と言えば旧約聖書のみを指していました。
パウロ書簡は文字通り「パウロの書いたお手紙」として受け止められていました。(後の時代になって「新約聖書」として教会が追認しました)

どの時代であっても子供は親に対して反抗的であり、なかなか言うことを聞かない存在であるようです。
それでパウロは「聖書も両親に従えと教えている」と聖書の権威を持ち出してまで子どもたちを説得する必要があったのです。

③祝福されるという「おまけ」付き

これはあたかも「両親に従うと良いことあるよ。それはね、あなたは幸せになり、長生きできるという祝福だよ」と言っているかのようです。
「だ・か・ら、両親に従おうね」と懇願しているパウロさんの姿が見えるようです。

ここから分かることは、間違っても上から目線で子どもに向かって「親に従うんだ。分かったな!」というような脅迫まがいのものではいけないということです。

        

2.親への聖書の忠告

「親は自分の子どもを怒らせないで、主が教える教育と訓戒によって育てなさい。」[4節]

①子供を怒らせない

子どもたちには3節もさいているのに、親に対してはたった1節です(笑)。
それもそっけなく「子どもを怒らせないように」と「主(キリスト)が教える教育の仕方にならいなさい」の二つだけです。

しかしこれは大変重要なことを教えています。
多くの親御さんは「子どもが怒るのは子ども自身に問題があるからだ」と考えています。
確かにそのようなケースもあるでしょう。

しかし子どもに問題があるのなら、なぜ聖書は親に向かって「子どもを怒らせてはならない」と命じているのでしょうか?
そうです。子どもを怒らせない責任が親にあるからです。

②キリストが教える教育の仕方とはどんなものか?

a.モデリング

キリストはまずご自分が模範を示してくださいました。
ですから私たちも子どもたちに対してそうすべきです。
「子どもに勉強しなさい」と口うるさく言う親が自分はテレビを見て大口を開けて笑っているというのではいけません。
親が勉強していれば子どもも自然に勉強するようになります。

b.共感・傾聴

「こんなことが何でできないんだ」ではなく、「できないよね。その気持ち私もよく分かる」と言ってあげることのできる親でありたいものです。

c.同じ目線

キリストは天から見上げて「ダメな奴らだ。いったい何時になったら一人前になるのか!」とは言わず、ご自分が神の御形(みかたち)を捨てることができないとは考えないで、私たちと同じ人間の形を取って、この地上に来てくださいました。

私たちもまた同じように子どもたちに対して謙遜であるべきです。
今当たり前のように持っている信仰や霊的識別力というものを自分の力で獲得したなどと考えてはなりません。
「この子どもたちも(私が苦労したように)苦労しながら信仰や霊的識別力を身に付けていくのだ」と考えるのです。

③子どもを怒らせることに罪悪感をもってはならない

「あぁ、また怒らせてしまった。主が『子どもを怒らせてはならない』と命じておられるのに(泣)」という感情の本質は自己憐憫(れんびん)です。
自己憐憫にとらわれると、命の躍動感が止まってしまいます。
座り込んで自己憐憫を味わう暇があったら、「ではどうしたら良いか?」を考えるべきです。
ようするに「次の手」を考えるのです。

主はあなたを悲しませたり、途方に暮れさせるために命令を与えておられるのではありません。
そうではなく「トライ&エラーを繰り返しながら、神の意志に到達」することを願っておられるのです。

◎平安と祝福を祈っています。

        

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