なぜ無力を認めたのに我力(がりき)で完成させようとするのか?

1.人のふり見て我がふり直せ

ガラテヤ教会の人々は「御霊が与えられ」たことが傍目にも分かるような明確な変化を経験しました。
さらに「あなたがたを罪から救ってくださった」と言えるほどに鮮やかに嗜癖や依存からも回復した人々であったようです。

このような劇的な変化を経験した人々が、いとも簡単に律法を守ることによって救われる道へと信仰が変質しつつあるのを見て、パウロは「あなたがたは何と愚かなのか」と嘆きます。

2.どうやってガラテヤの人々は騙されたか?

ヤコブに近い律法主義の人々は、ガラテヤ教会の人々にこのように言って近づいたのではないでしょうか?
「あなたがたが救われたのは結構なことです。
しかしキリスト教は奥が深いのです。どうぞ初歩の教えにとどまらないで、キリスト教のすべてを知ってください。キリストが与えられる遙か昔にモーセを通して律法が与えられています。律法は私たちが神の御心にかなう者になるためのものです。どうぞ、あなたがたも律法を遵守してくださるようにお願いします」

単純・素朴のガラテヤ教会の人々は「あぁ、そうか。キリストが与えられる何百年も前に律法が与えられていたのか。それだったら律法も守らなければいけない」と受け止めてしまったのかもしれません。

3.パウロのウルトラビックリの反論内容

この詭弁に対してパウロは奇策に出ます。
「おいおい、待たんかい。お前たちがありがたがっているモーセが産まれる430年も前にアブラハムが与えられているではないか!このアブラハムは信じるだけで救われる人々の父なのだ。あなたがたはアブラハムに倣(なら)わなければならない」

人間には伝統とか昔からあったものを尊重する気風があります。
このこと自体は良いことですが、用い方によっては悪い結果をもたらすこともあります。

「キリストより古いモーセの律法」という伝統を敵が持ち出すなら、こっちは「そのモーセよりさらに古いアブラハム」を持ち出すという戦略に、ありのパパは驚きます。

4.果たして現代の私たちはどうか?

「この人は努力して合格に達する人かな?それとも合格できない人かな?」と他者を値踏みしているということはないでしょうか?

私たちは自分の無力を認め、神になら自分を健康な心に戻すことが出来ると信じ、自分の意志と生き方を神の配慮にゆだねることによって、神に回復させていただいた者です。

万が一、そのような者が自分の努力で何とかするという人間観をもって他者に接するなら、その者は今持っている回復の恵みを失ってしまうことを知らなければなりません。

値なしに(努力なしに)救われた者が、他者に対しては「努力しなければ受け入れない」という態度で接するなら、その者が持っている救いを失ってしまうというパウロの警告を厳粛に受け止めたいものです。

◎本当のことを言えば、このありのパパこそ『我力』の最筆頭者であると言わなければなりません。
気がつくと握っているのです。
ですから瞬間瞬間、祈って手放します。
これを生きている限り、飽きずに懲りずに続けていく必要があることを自分に言い聞かせています。
平安と祝福を祈っています。

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