はたしてペテロは自分のうちにある恐れをどのように始末したか?

新約聖書のガラテヤ教会への手紙にはパウロがペテロを非難したことが記されています。
今日は皆さんとご一緒に、この記事から学びます。

        

1.ペテロの失敗をパウロが責める

エルサレム教会の牧師であったヤコブに近い人々、この人々には律法主義的傾向がありました。
この人々からの非難を恐れて、ぺテロは異邦人との交わりから離れてしまいました。

これがなぜダメなのかを真に理解するのは私たち日本人には難しいことではないでしょうか?
なぜなら日本人は「これはこれ。あれはあれ」というように信仰観と人間観を別々のものとして捉える傾向があるからです。

たとえば戦前、日本国内では外国と交流を持つことを非難する風潮がありました。
日本の教会はその風潮に迎合して、各種のキリスト教の国際団体から脱退しました。

しかしパウロはそうではありませんでした。
パウロは値なしに(努力なしに)救われたのであるならば、他者に対しても「誰でも救われ得る尊い存在」として接する義務があると考えました。

        

2.人への恐れを十字架につける

①ペテロの問題は私たちの問題

ペテロには病的な人への恐れがあったようで、それが大事な場面になると顔を出し、ペテロを通して働かれる神の働きを台無しにし、傷つけてしまいました。

これは誰のことを言っているのでしょうか?
そうです。私たちのことをも言っているのです。

②恐れの究極的な解決法

恐れの問題を抱えているペテロに対して、パウロは「私はキリストを信じたとき、人の評判を恐れる心(古い自我)もキリストと一緒に十字架に付けてしまった。どうか、あなたも私と同じように人の評判を恐れる心をキリストと共に十字架に付けてほしい」と懇願します。

言い伝えでは、ペテロの後の生涯はこのパウロの助言を受け入れたことを確かに証する生涯であったようです。

        

3.自分自身を愛するように他者を愛する

人の評判を恐れるということと、自分自身を愛するように他者を愛することは両立しません。
なぜなら恐れているということは自分自身を愛していないことだからです。

もし自分自身を愛しているなら、人への恐れを断固として拒否するでしょう。
もちろん自分の力でできることではありません。
棚卸しをして、もう一人の人に見てもらい、そうやって自分自身の性格上の欠点である行動パターンを発見することが必要です。

そうして神に性格上の欠点を取り除いていただく営みを一日一日繰り返します。
そうすると自分自身が恐れの行動パターンから解放されているのを発見するときが必ずやって来ます。

◎平安と祝福を祈っています。

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