中途半端に失望せずに思い切って絶望することが真の問題解決に繋がる

(2020/10/16記事更新)小さな失望の積み重ねは生きる気力を私たちから奪い、無気力にしてしまいます。
この記事はどういったものが私たちを失望させるのかを明らかにし、絶望することこそが真の問題解決に繋がることを解説しています。

1.失望する本当の原因

①100点の自分と無意識に比べている

私たちは知らず知らずのうちに万能感に支配されているものです。
ことにこの傾向は日本人に強いように思われます。

実況中継などを聞いているとアナウンサーが「惜しい。もう少しだったのに!」などと言っているときがあります。
しかし実際は99%うまくいっているのです。
そうであるのに1%のうまくいかなっかた点に焦点を当てているのです。
このおかしさに気がつかなければなりません。

もちろんオリンピックなどですと金メダルと銀メダルの違いは大きいです。
しかし人生はオリンピックではありません。
いやむしろ平凡な一日の積み重ねが人生なのです。

問題の核心はこの何でもない日々を失望しないで過ごしているかどうかという点にあります。

②治ることを期待している

これは特にアダルトチルドレンの傾向をもっている人に多いです。
だれあろう、ありのパパがその人です。
渇望の波が襲ってこない日々が続き、自分がアダルトチルドレンであることを忘れているときもあります。
危ないのはそんなときです。

突然、渇望の波が襲ってきます。
(というのは偽りの自己認識であって、同じ条件・環境が再現されるなら、依存症特有の渇望の波はいつでも襲ってきます)
そのようなとき「やっぱり治ってなかったんだ」と気落ちします。

ただ、この場合の失望は有益な点もあります。
なぜなら失望するたびごとに謙遜になれるからです。

2.自分の置かれている現実をありのままに受け入れる

①精神面での強迫観念と肉体面での渇望現象は生きている間はなくならない

これが現実に意味するところは、生きている間は誘惑という形で様々な惑わしが連続して襲ってくるということです。

これは潔癖(けっぺき)な人には耐えられないことです。
なぜなら誘惑と戦うこと自体が「自分は汚い存在である」という事実を認めざるを得ないことだからです。

「罪人なんだから汚いなんて当たり前じゃないか」というのはもちろん正論です。
しかし人間は弱い存在であり、建前で「自分は罪人である」と認めたとしても、本音では「それでもちっとは善人の部分がある」と思いたいものなのです。

嘘だと思ったら、敬虔に見えるクリスチャンに「あんた、本当に汚らわしいな」と言ってみてごらんなさい。
きっと首を絞められること必定です(笑)。

②だから誘惑もなくならない

心のどこかできれいさっぱり治ってしまうことを期待しているなら、繰り返し誘惑される自分をいつかは赦せなくなってしまいます。
「いつまでたっても誘惑を遮断できないダメな自分」というわけです。

しかし、ちょっと待ってください。
罪人って、そういうことではないのでしょうか?

私たちにできることは、誘惑が襲ってくるたびに頭(こうべ)を垂(た)れて「私には出来ない。しかし神には何でも出来るからである」と祈ることです。
一日に何回でもそのようにいたしましょう。
格好だけは聖人みたいでいいじゃありませんか!(笑)

3.思い切って絶望することだけが唯一の正しい態度

日々の生活の中での小さな失望の積み重ねは私たちの霊的生命を枯渇させます。
しかしもし私たちがそんな自分自身に対して絶望するなら、事態はがぜん変わってきます。

絶望とは「自分は治らない。死ぬまでこのまま」という事実を認め受け入れることです。
そしてこの絶望は私たちをして現実的な回復への道を歩ませるように導きます。

まさに「私は治らない。死ぬまでこのまま。しかし回復は可能。だから回復に専心しよう!」ということです。

生きている間ずっと、この回復の軌道に乗り続けることこそ、神が私たちに願っておられることです。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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