精神的病をもつ人が異言を語ると混乱する危険はないですか?

(2020/09/30記事更新)精神疾患を抱えた人が異言を語るなど危険極まりないと考える人もおられるようです。
この記事は歴史的なペンテコステ運動に沿った異言理解を持つなら危険はないことを明らかにしています。

        

1.ご相談内容

初めまして。
福音派の教会に行っています。

同じ教会に行っていた友達が異言の賜物を受け、ペンテコステ派の教会に移ったこともあり、ペンテコステ派の事を時々調べてみるようになりました。

さて、今日お聞きしたいのは、

・「健康上(特にメンタルヘルス上)の理由により、敢えて異言を求めない」というのはよくあることなのか?

・薬さえ飲んでいればノーマルな生活が送れる人が、異言を受けてしまったら、自分にも他人もわからない言葉を発することになり、混乱しないか?

・異言で長時間祈るうちにハイ (high) 状態になり、夜眠れなくなるということがあるのか?

本当に神様が与えて下さっているなら、そういう心配はないと思います。
しかし、「聖霊から来る異言」と「悪霊から来る異言」があると書かれている本もありますし、ありのパパブログのコメントの中に、カルト化したペンテコステ派教会の元献身者が精神を病んでしまった、というのを読んで怖いなぁと思いました。

(文章の一部を改編しています)

        

2.相談へのお答え

こんにちは、ミッキーマウスさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。

ご相談の内容に一つ一つお答えしていきますね。

①メンタルに問題のある人が異言の賜物をあえて求めないという選択肢はあるのか?

a.異言で祈る賜物と聖霊のバプテスマ

ご質問の内容にすでに混乱に陥る原因が含まれていることにお気づきでしょうか?
それは異言で祈る賜物とは聖霊のバプテスマが与えられるときに同時に添えて与えられるものだということです。

異言の賜物が与えられるのではなく、聖霊のバプテスマが与えられるのです。
メーンが等閑(とうかん)に付され、おまけだけに焦点が当たることは不健全です。

b.なぜ聖霊のバプテスマがあるのか?

そもそも私たちが神を信じたのは自分の力では救いに到達することができないのを認めたからです。
これを無力を認めるとか、悔い改めると言います。

無力を認めた私たちには「今日一日」を生きるために神の力が必要です。
その神の力が聖霊のバプテスマを通して与えられます。
異言で祈る賜物は、この神の力を毎日更新するために必要な「神との人格的交わりのための賜物」です。

c.結論としてどのように考えるのが良いか?

何十年も以前は「教会はうつ病の温床」と精神科医によって言われることもありました。
これはおもに福音派教会の律法主義的姿勢を指摘して言われたことでした。

ですから次のように言うことができると思います。
異言の賜物ではなく、聖霊のバプテスマを求めているなら安全であるということができる。

しかし聖霊のバプテスマを自分が完全になるための手段と考えているなら不健全であり、精神的病をもっている人の症状を悪化させる危険があります。

②精神病治療薬を飲んでいる人が異言を語ることによって精神的に混乱をきたす危険はないか?

「その危険はない」と申し上げることができます。
これは上記の聖霊のバプテスマの正しい理解に立っていればという条件付きです。

もちろん、精神科医の中には教会に行くこと自体を勧めない人もいることは事実です。
これは未信者が信仰を持つということは非常に重大な決断をすることですから、精神的に混乱しているときに、そのような決断をすべきではないという理由からです。

実際に、精神的病をもっている方が教会に通うようになって精神的に混乱してしまったというのはよく聞く話ではあります。

        

3.混乱しないための道

①預言者の霊は預言者に従う

感情的に盛り上がることは、どんなことでもあるものです。
たとえば話していて、思わず盛り上がってしまい、大きな声で話してしまうなどです。

しかし、これはよく考えてみると予め自分自身が大きな声で話すことを許可している場合がほとんどであり、言い訳として「思わず盛り上がっちゃって、すいません」と言っているのにすぎません。

たとえば異言で何時間も祈るなどは霊的にそうせざるを得なかったというのは見え透いた言い訳であり、本当のところはそれを自分自身で計画していたのです。

ですから本当は自分で自分をコントロールすることは可能なのだと言うことができます。
そのような意味では異言の賜物を与えられたからと言って、その人がどうかなるのではないかという心配はナンセンスと言わなければなりません。

②救われるとはどういうことかをよく理解するのが先決

このような問題を考えるときに大切なことは全体を俯瞰(ふかん)することです。

私たちは、なぜ信じ、なぜ信仰生活を送っているのでしょうか?
それは自分の力では自分を救うことができない無力を認めたからにほかなりません。

キリスト教信仰の中心はここ(自分の無力を認める)にあります。
あとはすべての教えを「無力を認める」という教えに調和させていくことです。
そうしたら決して混乱を引き起こすことはありません。

ミッキーマウスさん、ご理解いただいたでしょうか?

◎回復と平安と祝福を祈っています。

        

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