(2020/09/11記事更新)無力を認めるのと自分を超えた大きな力を信じることはセットになっています。
どちらか一方だけを行っても回復はありません。
この記事はなぜ両方実行する必要があるのかを解説しています。
1.「無力は認めないが、神は信じる」というのは不毛であり偽善でしかない
自分は自分の力で回復できると心の中では考えつつ、回復の一手段(方便)として「自分を超えた大きな力」を信じるということはないでしょうか?
これは死んだら人間も神になると考える日本文化のもとでは普通なことです。
12ステップは誰の心の中にも神がおられると教えますが、日本文化のもとでは心の深いところに神を探す必要はありません。
なぜなら自分が神だからです(笑)。
ここに無力を認めることの出来ない真の理由があるようです。
それはそうです。
自分が神なら、自分の無力を認めることはできない相談です。
〇自分の無力を認めるということは、自分が神であるという立場から降りることを意味しています。
2.「無力を認めてはいるが自分を超えた大きな力は信じない」というのは自己憐憫(れんびん)を生む
自分の無力を認めはするが、自分を超えた大きな力を信じることはしないという人もいます。
そのような人の特徴は自己憐憫に陥っているということです。
要するに「かわいそうな私」を十分に味わいたいのです。
ありのパパなどは、さっさと自分を超えた大きな力を信じて回復に向かって歩み始めればいいのにと思うのですが、本人にとっては余計なお世話のようです。
確かに自己憐憫は甘く感じます。
どんな甘味料もかなわない陶酔感をその人にもたらします。
ずっと味わって「こんなだめな自分を嘆いていたい」という気持ちも分からないではありません。
なぜなら、ありのパパも自己憐憫の病に罹(かか)っていたからです。
〇人生のどこかでこの病気に打ち勝つ決心をしないと人生を棒に振ることになります。
3.12ステップの1と2はセットになっている
このような訳でステップの1と2は切り離すことができないものです。
無力を認めている分だけ、神の力が私たちの心と人生に流れ込んできます。
自分の日常生活での言動を振り返ってみて「あれ?もし無力を認めていたら、このような言動が自分の口から出てくるだろうか?」と思うときも多いです。
無力どころか、我力(がりき)満々(まんまん)の自分を発見するのです。
私たちにできることは、無力の振りをすることをやめて「神様、こんな私を憐れんでください」と祈ることです。
そして無力を認めることから離れているのを気づくたびに、そこから飛び退(の)き、無力を認めるところに戻ってくることです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。
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