(2020/09/07記事更新)それが何であっても嗜癖として使っているなら無力を認めることで回復可能です。
アルコール依存症のアルコールを他の嗜癖に置き換えればいいのです。
この記事は過食と適応障害を抱えた方からのご相談にお答えしています。
1.ご相談内容
今、過食と適応障害で通院中です。
自分の無力を痛感しています。
それで神に乗り越える力をいただきたいと思っています。
ただ、私はクリスチャンではありません。
正確に言うとクリスチャンをやめています。
神様がいるとは思います。
神のために生きていない私が神様に祈り助けてほしいと思うのはただのワガママなのかなと。
そんな都合のいい事はできないのかなと。
聖書の原則は今でも正しいと思っています。
ただ、とても厳格な宗派のため私は全てに従う事が出来ずに離れてしまいました。
自分にできる範囲で原則は当てはめています。
ただ、このできる範囲というのも自分の都合のいい事だけやっている気がして罪悪感があるのです。
今は、どの教会にも所属していません。
「個人的に神を信じ、神に祈る」というやり方は神には届きませんか?
2.相談へのお答え
こんにちは、まいさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。
一つ一つ丁寧に考えてみましょう。
①無力を認めるとはどういうことか?
12ステップが教える無力とは「健康な心に戻れない最大・唯一の原因は自分自身の無力さにある」のを認めることです。
そして聖書が教える無力とは「自分の力では決して救いに到達し得ない」のを認めることです。
聖書が教える原則は「律法(戒め)を守ることによっては誰一人として神の合格点を得ることはできない」ということです。
さて、この点から見て、まいさんの仰ることは正しいと言えるでしょうか?
まいさんは片方では「自分の無力を痛感する」と言いつつ、もう片方では「自分のできる範囲で原則を当てはめています」と言われます。
これは甚(はなは)だしい自己矛盾ではないでしょうか?
聖書は「原則を自分に当てはめることによっては決して救いにも回復にも届かない」と教えています。
では私たちはどうしたら良いのでしょうか?
それは「原則を守れない自分のままで良い」と神が言われていることを真実とすることです。
「そんなあなたではダメだ!」と誰かが言ったら、「神がそう言われているのだ。なんか文句あっか!」と言い返せばよいのです。
②自分なりに理解した神でよい
教会に行っておらず、個人的に神を信じるというやり方で大丈夫かというご質問です。
12ステップを作ったビル・Wも同じ質問をしました。
それに対する答えは「君が信じることのできる神ならなんでもいいんだ」というものでした。
その結果、ビル・Wをはじめたとした数限りない依存症者やアダルトチルドレン・共依存症者が回復を果たしました。
もちろん回復が進むにしたがって、私たちが持っている神概念もまた変化・成長していく必要があります。
いつまでたっても、自分を助けてくれるだけの神という概念であってはなりません。
3.人が癒されていくとはどういうことか?
①「治る」と「回復する」は違うこと
治るとは症状が消えるだけでなく原因もなくなることです。
これにたいして回復とは症状はなくなるが、依然として原因そのものは残っていることです。
肉体の病気にも治る病気と回復する病気があります。
例えば風邪は治る病気ですが、糖尿病は回復する病気です。
「依存症は治らない病気、しかし回復は可能、だから回復に専心しよう」というのが依存症のスローガンです。
②回復しても無力のまま
まいさんはご相談の一番最初のところで「乗り越える力を神に求めている」とお書きになりました。
これが「無力な私」が「有力な私」になるために神の力を借りようとしているのではないことを願います。
回復したとしても私たちは無力なままです。
少しも変わりはしません。
その無力なままの私で良いと神が言われています。
そしてその無力のままの私で良いと思えている分だけ神の力が信じる人の心と人生に流れ込んできます。
ですから、ある意味では神の力が流れ込んでくるかどうかは、私たちが持っている自己イメージに掛かっているということが言えます。
◎回復と平安と祝福を祈っています。