信じないと救われないと教えることは差別であるという主張があります。
この一見、正論に見える教えの背後には努力した者が救われるという理解が潜んでいます。
この教えの偽りを暴きます。
1.ありのパパの友人のこと
ある時、ありのパパの下宿に友人が尋ねてきました。
その時、勉強机の蛍光スタンドに立てかけてあった栞(しおり)に気がついて、その友人は栞を読みました。
その栞は聖書の御言葉を印刷したものでした。
「滅びに向かって生きている人々にとってはキリストの十字架のメッセージは悪い冗談でしかないが、実際に救われた私たちにとってみれば神の力そのものである」(Ⅰコリント01:18)
この箇所は、未信者から見ると一方的に過ぎると思えるような内容だったため、どのような反応が返って来るか内心びくびくしていました。
そうしたところ、その友は「なんと峻厳(しゅんげん)な神の裁きであることか」と言ったのです!
ありのパパはびっくりしてしまい「えっ、え~?」と変な応答しか出来ませんでした。
その友人はそれから12年して信仰に入りました。
聖書通読をしていて、この箇所に来るたびに、このことを思い出し神に栄光をお返しするものです。
2.「聖書は何と言っているか?」が大事
パウロはここではっきりと「滅びに向かっている人々」と書いています。
万人救済主義のように「死んだら皆救われる」と考えていたなら、このようには書かなかったでしょう。
リベラル派と福音派が存在する今のような時代ですと、このような論争を呼ぶ聖書の箇所は避ける心が働く危険はないでしょうか?
しかし、よく考えてください。これは聖書の言葉です。
3.本当の二元論はどちらか?
ある人々は、同じ人間を滅びる人と救われる人に分けるのは典型的な二元論であると言います。
この二元的理解から様々な差別が生まれているとします。
果たして、その通りでしょうか?
イザヤ書にはこのように記されています。
「わたし(神)は、人間の探求による救いを打ちこわし、人間的聡明さによる救いを無効にする。」
キリスト教の教えが「努力した者は救われ、努力の足りなかった者は救われない」というものであったら批判されることはなかったでしょう。
なぜなら現代に生きる人々は「努力」ということを絶対視し、そこから派生する「結果」というものを無批判に受け入れる傾向があるからです。
しかしよく考えてみると現代社会の問題の大半は「努力したかどうか」によって人々を二元の壁で分け隔て、「結果」を無条件に受け入れることを強制していることから発生しているのではないでしょうか。
この「努力したかどうか」だけを重要視することを実は律法主義というのであり、現代人は自覚のない「律法教」の熱心な信者であるとも言えるのです。
救いが個々人の努力によって獲得されるものなら、差別であるとか二元的であるとかの批判は正しいものです。
しかしイエス・キリストが私たちのためにご自分の命を捨ててくださったことにより救いを提供してくださったのです。
この救いを頂戴(ちょうだい)するのに私たちは何も支払う必要はないのです。
○無代価で与えられる救いによって生きている間に救われて、永遠のいのちを与えられていることを喜びつつ、これこそが現実社会の根幹的な問題の解決であることを確信をもって宣べ伝えていきたいものです。