アダルトチルドレンが決断するのが難しい理由と誤りなく決断する方法

(2020/07/31記事更新)アダルトチルドレンが何かを決断するのは難しいことです。
しかし現実の世界ではそのように言っているわけにもいきません。
この記事はアダルトチルドレンが誤りなく決断する方法について解説しています。

        

1.ご相談内容

神様の為に人生を捧げたいと思い、教会で仕えています。
でも、教職者となり「先生」と言われるのは、とても怖くて平安がありません。

これは人をおそれているのは間違いありません。
アダルトチルドレンとして、自覚しています。
いつも誰かしらを責めています。
自分も認められません。
主の為に仕える努力もできていません。

今まで、牧師や教会に言われたことは責任感の故に仕えさせていただきました。
教会を離れたいと思う時、フルタイムで教会で働き始める時など、都度都度神様からのみことばをいただきながら、今に至ります。
でも、教職者としてのみことばは受けていません。
そして、心がこんな未熟な状態で就いてよいか分かりません。

すばらしい職務に就かせていただきたいと思う反面、神様からのコーリングの確信がないことと、自分の愚かさや、クリスチャンとして未熟さのゆえお断りしようかとも思います。

今祈り、導きを求めています。
アダルトチルドレンから、教職者になり、よい働きはできるのでしょうか?
できるならば、失敗しないためのアドバイスなどいただけたらと思います。

(特定されることを防ぐため一部を改編しています)

        

2.相談へのお答え

こんにちは、くまさん。
くまさんは現在、教会での奉仕者という立場から教職者への段階に進もとしておられます。

どのような決断を下すべきか、悩まれるのは当然のことです。
誰でも悩みますが、アダルトチルドレンであればなおさらです。

①今晩、死ぬとしたら、あなたは今日一日何をしたいか?

ある人は「明日、この世界が終わりを迎えるとしても、私はリンゴの木を植える」と言いました。

これは日常生活の大切さを教える話のなかに出てくる物語ですが、別の教訓も含んでいます。

それは「あなたが本当にしたいと思っていることをやったほうがいい」ということです。

「今日も私は自分が一番しっくり来る一日を送った。満足です」と言って、一日を終わることができているでしょうか?

もし出来ておられるなら、この地上生涯を終えて天に帰られるときも、きっと満足をもって天の御国にお帰りになることができます。

どうぞ「今晩死ぬとしたら、私は今日何をしたいだろうか?」と自分自身に問い掛けてくださいますように。
そうしたら「自分自身」は明確に答えることでしょう。

②召命の御言葉がないことは障害になるか?

これは微妙な問題です。
何が微妙かと言いますと、御言葉の有り無しによって献身をするかしないかを決めるのは原則的には間違っていません。

しかし人間の側で召命に関する御言葉の取り扱いを間違ってしまう危険があります。
たとえば、くまさんはフルタイムの働きをするときに御言葉を与えらておられますね。

神様から見てフルタイムの奉仕者と教職の間に違いがあるとお思いでしょうか?

私は「ない」と考えています。

この問題の本質は「献身するかどうか」ではなく「神様にお従いするかどうか」ということではないでしょうか?
なぜなら、くまさんはすでに献身しておられるのですから。

ただ、どのフィールドで働くかは神様がお決めになることです。
神様の「くまさん、悪いけど教職やってくれないか?」というオファーを引き受けるかどうかは、くまさんがお決めになることです。

        

3.合理的判断を繰り返すことによって神の意志に到達する

①恐れに打ち勝ち、一歩ずつ歩を進める

くまさんが仰るように確かにアダルトチルドレンは恐れます。
しかし、その恐れゆえに大失敗から免れているということも言えます。

ACから恐れそのものがなくなることはありません。
しかし恐れを良く分析して「変えられるものと変えられないもの」を見分け、変えられるものについては統合作業によって変えていくことができます。

②堂々巡りをしない

迷うのは端的に言って自信がないからです。
しかし自信をつけるためには確信ある行動を繰り返すこと以外にありません。

大きな決断をするときは、それを小さな決断に小分けすることです。
そしてその小さな決断を確信をもって処理していきます。
そうすると、自然に自信がついてきます。

③「今度こそ」と力まない

「あれも十分ではない」「これも出来てない」と感じるのは完全主義です。
もし私たちが「これは出来た」「あれも出来る」なら、そもそもキリストの十字架は必要ありません。

二元論になってはいけません。
頭(信仰)では無力な自分を認めつつ、現実世界では「なんでも一人前にできなければダメ」というのが典型的な二元論です。

出来ない私のありのままを神は受け入れてくださり、その不十分な器を通して神の業が働きます。
これが神のご計画です。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

        

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