(2020/07/25記事更新)依存症からの回復のために弱点を克服しようとすることが無力の否認に繋がることがあります。
この記事は弱点を克服しようとする方からのご相談に答えつつ、無力を認めることが全ての前提であるのを解説しています。
1.ご相談内容
わたしは30代の独身男性です。
15歳の時から性依存というか、オナニー依存になっていました。
そのため、活力を失い、パニック障害、対人恐怖症、腸過敏性症候群といった症状が若い時からあり、生きづらさを抱えていました。
10年ほど前からスピリチュアルな話を聞くようになり、わたしも家業を手伝いはじめたこともあり、家族再構築というか、家族が一丸となって進んでまいりました。
わたし自身も、生きづらさと向き合い、徐々に徐々に、良い方向に向かっています。
健康法、カウンセリング、食事療法、瞑想など、いろいろと試してきました。
そして、昨年から聖書を読むようになり、教会にいくようになりました。
わたしは、昨年自助グループにも参加してみました。
自助グループはAAで教会の会堂で開催されていました。
主催者(チェアマン)は男性でした。
主催者の男性は、わたしが、初参加にもかかわらず、わたしが話をはじめると、席を外すなどの行為をして、聞く耳を持たず、非常に悲しい思いをしました。
AAに通う事よりも、教会で懺悔していく事のほうが、わたしには大切なのかもしれないと、その体験でおもいました。
主催者という立場にもかかわらず、さらには自助グループというグループにも関わらず、排他的な行動をとる主催者をみて、わたしは人間はいかに弱い生き物か、ネガティブな感情に打つ勝つことができない生き物かということを思い知りました。
どうしても快楽や、弱い心、目先の利益や、女性を囲いたいという独占欲、そういう肉の弱い心に、どうしても、勝つことができないと、身をもって知りました。
わたし自身も、過去に、性依存的傾向があり毎晩のようにオナニーをし続ける人間でした。セックスにも依存してきました。
そのため、虚飾、虚栄のために、お金も使い続けてきました。
昨年から、聖書を読むようになり、部屋にキリストの十字架を置くようになってから、オナニーなどの性依存傾向が、なくなりました。
アディクションが、どんどんなくなっていき、弱い心に打ち勝ち、罪に打ち勝つには、もしかすると、信仰の力なくしては、弱い心に打ち勝てないのではないかと思うようになりました。
そして教会にも少しずつ通うようになっています。
洗礼を受けるには勇気がいるのですが、ありのパパ様は、洗礼を受けることにためらいはありませんでしたでしょうか?
まわりの人間をゆるし、愛することを続けて、人生は変わっていきましたでしょうか。
わたし自身も、罪から解放され、奉仕による生活、仕える生活を実現させていければと思っております。
他者のよろこび、他者の幸せを祈り、それを実行に移せるような男になりたいと思っております。
ありがとうございます。
(本文を一部改編しています。)
2.相談へのお答え
こんにちは、ゆうきさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。
ご質問は以下の二点になると思います。
a.洗礼を受けるには勇気がいるのですが、ありのパパ様は、洗礼を受けることにためらいはあったか?
b.まわりの人間をゆるし、愛することを続けて、人生は変わっていったか?
①洗礼を受けるのにためらいはなかったか?
洗礼を受ける直前になって、それは人口の1%に満たない集団に属することを意味しているのを理解したとき、なんとも言えない寂しさが襲ってきました。
しかしすぐに「これは真理を自分のものにするために支払わなければならない代価である」と理解でき、その気持ちを打ち消しました。
その決断はいまでも間違っていなかったと確信をしています。
②この生き方を続けると人生は本当に変わるか?
必ず変わります。断言(だんげん)できます。
ただし、これには条件があります。
それは、ゆうきさんが一人前になることを目指さず、無力を認め続けることに徹し続けることです。
そうするなら、どなたの人生であっても必ず変わることができます。
3.無力を認めることがすべての前提
キリスト教も12ステップも無力を認めることが前提にあります。
無力を認めるとは「自分の力ではどうにもならなくなった」ことを認めることです。
そしてこの無力は生きている限り治りません。
治らないとは、そのままであるということです。
この前提が崩(くず)れると、キリスト教も12ステップも効果を失ってしまいます。
そして私たちはいとも簡単に自分が無力であることを否認する傾向があります。
これをキリスト教では「肉性(にくせい)」とか「原罪(げんざい)」と呼んでいます。
自分の無力を認める生き方は、ある人々からすると「みっともない生き方」に見えるかもしれません。
しかし、そうではないのです。
なぜなら自分の無力を認めている分だけ、人様(ひとさま)の中にもある無力を認めることができるからです。
「こんな自分ではダメだ」と思っているときは、他者のなかに「こんなダメな自分」をみてしまいます。
それで人を裁くようになります。
これが人を裁いてはならないと頭では分かっていても、つい人を裁いてしまう本当の原因です。
反対に「自分はありのままでいい。良いと思えるところも悪いと思えるところも全部ひっくるめて自分なのだ」と心底思っているなら、他者を見てもそのような思いが自然と湧き出てきます。
実はこれが人間関係がうまくいく秘訣でもあるのです。
私たちは「成長」と聞くと、つい一人前になることを想像してしまいがちです。
しかしこれは間違った理解です。
なぜなら「一人前」とは「おひとりさま」という意味だからです。
わたしたちは最初に自分が無力であることを認めました。
これはとりもなおさず「神様なら自分を健康な心に戻してくれると信じるようになった」ということです。
そうであるのに、自分ひとりで生きていけるようになることを目指すのは全くの的外(まとはず)れです。
真の成長とは何を意味しているのでしょうか?
それは自分が無力であることを忘れないための修練を意味しています。
無力をよりいっそう認めなければならない場面で、何を勘違いしたのか「俺も成長したものよの~」といい気になり、大転(おおこ)けしてしまったりします。
人生のゴールにたどり着くまで気を抜かないで、慎重に運転を続けること。
これが真の成長と言うべきものです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。