12ステップが教える『健康な心』とは認知の歪みがなくなること!

(2020/07/20記事更新)12ステッププログラムが教える「健康な心」とは治ることを意味しておらず、回復することを意味しています。
この記事は回復とは何を意味しているのかを明らかにし、実現する方法について具体的に解説しています。

        

1.健康な心になっても、強迫観念も渇望現象もなくならない

まず「健康な心とは何か?」を正確に理解する必要があります。

ありのパパなどはスリップしそうになると「神様、助けてください。ステップの2の健康な心に戻してくれると信じます」と祈ってしまいます。
この祈りは間違いではありませんが、的(まと)をはずしています。

なぜなら「健康な心」に戻っても、強迫観念も渇望現象もなくなりはしないからです。
12ステップ自体が依存症は治らない病気であることを明確に述べています。
即ち、治らないとは強迫観念も渇望現象もなくなることはないということです。

ここで一つ疑問がわき上がります。
それは「強迫観念も渇望現象もなくならない『回復』とは一体なんぞや」というものです。
皆さんは疑問に思われませんか?
ありのパパは疑問に思いました。

        

2.健康な心とは何か?

それは「健康な心とは認知にゆがみのない心である」ということです。
では「認知にゆがみがない」とはどういうことでしょうか?
それは今までは「あの人が悪い。この人に責任がある」と口に出すことはなくても、意識的・無意識的に思っていたのが、12ステップに取り組んで、「問題は自分にあった。自分の中にある問題を解決するなら、私は回復できる!」という理解です。

ではどうしたら健康な心になることができるのでしょうか?

        

3.健康な心になる三つの方法

ステップの3には「自分の意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮に委ねる決心をした」とあります。
神の配慮に委ねるとは、なにか分からないモヤッとしたものではなく、明確なものです。
それは健康な心に戻るために神の指示に従うことです。

神の配慮に委ねるとは明確に三つのことをやりとげることを意味しています。

一つは自分自身の棚卸しを行い、その表をもう一人の人にお見せすること

いつまで経っても棚卸しを行わず、行ってもそれを表にしない人がいます。
なぜ徹底して神の指示に従おうとしないのでしょうか?

実はそれはありのパパの姿でもありました。
人生が追いつめられて、どうしようもなくなるまで手を付けようとしませんでした。
これを読んでおられる皆さんはそのようなことがないようにと祈っています。

見てもらうのは12ステップのことをよく分かっている人なら誰でもかまわないというわけにはいきません。
よくよく慎重に選ぶ必要があります。

ビックブックには「聖職者やカウンセラーや先ゆく仲間たち(12ステップに取り組み、十分に回復しており、周囲からの信頼を勝ち得ているメンバー)」が上げられています。

ありのパパのことを言えば、ステップの5によって自分の短所に気づきました。
それは「恐れが動機となって不正直な対応をなし、その不正直な対応が原因で人々との間にトラブルが起き、そのトラブルが起きた人々を自分に落ち度があったにもかかわらず一方的に恨むという利己的きわまりない生き方」です。

それまでも自分の短所は恐れと不正直であると分かってはいました。
しかしそれらの短所がどう自分の人生に影響を与えているのかが理解できていませんでした。

それが他者に明確に指摘されることによって鮮やかに(まるで映画の一場面を見るかのように)自分の短所が自分の人生にどのような影響を与えているのかを知ることが出来ました。

ここまで自分の問題が明確に分かって、人生が変わらないはずはありません。

自己洞察や自己カウンセリングをいくらしても、もう一人の人に表を見てもらうことによる効果には全く及(およ)びません。

二つ目は短所を神に取り除いてもらうステップの実践

この部分が12ステップの核心部分であるということができます。
なぜなら、このステップにおいて自分の性格上の欠点・短所が取り除かれることが「健康な心に戻る」ことにつながるのですから。

もちろん性格上の欠点・短所を取り除いてもらう作業は一生涯続くステップです。
一朝一夕(いっちょういっせき)にはいきません。
「今日一日だけ」使いなれた古い手を使わないと決心します。
古い手とは性格上の欠点から出てくる行動パターンを指しています。

そして新しい手を使う決心をします。
新しい手とは丁度古い手の正反対の行動パターンを指します。
どんな新しい手を使うかは、お一人お一人みな違います。
祈ってよく考え、自分にあった新しい手を選び出します。

一例として、ありのパパの新しい手をご紹介します。
「すべての人に敬意をもって接することに全力を尽くす」というものです。
はじめのうちは単純に「失礼にならないように、気持ちよく過ごしていただけるように」というものでした。

しかし、これを繰り返しているうちに自分の内面を知ることになりました。
それは今までは人々を人格をもった存在としてではなく、自分の怒りを爆発させる対象としてみていた節(ふし)があるということでした。
それに気づいてからはより一層徹底的に人格をもった存在として敬意をもって接していくということを行うようにしました。

性的な問題を持っている方は、人々を性的対象と見るのではなく、神に愛されている人格をもった存在として見ていく訓練をすることです。
そうすると今までは当たり前のように人々を性的対象として見てきたことに気づくときがやってくるでしょう。

三つ目は埋め合わせ

これも生涯を通して行っていくステップです。
言い換えると私たちの人生は埋め合わせの人生であるということもできます。
埋め合わせできるときは躊躇(ちゅうちょ)なく埋め合わせを行います。

その際に謝罪と遺憾の意を表すことの違いを知っておくことが重要です。
謝罪を繰り返すと、謝罪する側にも謝罪された側にも悪い心理的な影響を与えます。

遺憾の意を表すとは、「あの時は悪かった」と言うことです。
それ以上でも、それ以外でもありません。
謝罪は補償を伴い、それゆえに一回限りのものでなければなりません。
しかし遺憾の意を表すことは半永久的になすべきことです。

これは私たちが健康な心を取り戻すのにどんな効果があるでしょうか?
私たちには現実から遊離したところで妄想を抱いて生きている部分がないでしょうか。

それが埋め合わせの人生を生きることで、現実の世界に責任を持つ存在として生きていくことを覚えます。
これこそが唯一の被害妄想から解放される手段であると言ってよいぐらいです。

私たちお互いは神の配慮に自分の意志と生き方を委ねることによって、健康な心を取り戻したいものです。

https://wp.me/PEPCG-3Y9
https://wp.me/PEPCG-4Yb

◎回復と平安と祝福を祈っています。

        

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