聖書が教える「人生の真実」を知っていたら伝道に熱心になる理由!

(2020/06/29記事更新)聖書には生きている間に行ったすべてのことについて神に申し開きしなければならない時が来るとあります。
この記事は伝道に熱心になる理由を明らかにし、本当に救われた人は伝道熱心になることを解説しています。

        

1.伝道に熱心に取り組むのは重荷とはならない

「こういうわけで、私たちは主を恐れることを知っているので、人々を説得しないではいられない」[コリント教会への手紙第二05:11]
「こんなことを言うと、私(パウロ)が気が変になったと思うかもしれない」[12節]

なぜ人々を説得すると、他の人に気が変になったと思われるのでしょうか?
それは「私たちクリスチャンは、だれでもやがてキリストの裁きの座の前に立って、地上生活の間、思いと言葉と行いにおいて何をしたか、正確に評価され、それぞれ報いを受けななければならない」からです。

これはすべての人が自分の罪に応じて裁かれる最後の審判とは違います。
そうではなく救われて罪赦されたキリスト者が、委ねられた神との和解という福音の宣教にどれだけかかわったかについて、神から正確な評価を受けると言っているのです。

「おったまげた!だったらクリスチャンになるの止めた!」と言われますか?(笑)
この福音の宣教は重荷とはならず、却って私たちにとって栄光に輝く喜びとなります。

なぜならキリストの十字架は私の罪のためであり、私を救うためであったと信じた私たちは、自分自身の中に神との和解を体験し、さらに心が新しく作り変えられ続ける体験の初発(しょはつ)を経験したからです。

        

2.偽(にせ)教師は伝道に本気になって取り組まない

パウロは精力的に、しかも忍耐深く、人々にキリストを信じることによる神との和解の福音を信じるように説得しました。
その結果としてコリントの人々が信仰に入り、コリント地方に教会が建て上げられました。

片方でパウロのように熱心に人々を説得する者もいれば、もう片方には「上辺だけで誇っている偽教師」もいました。
偽教師という言葉にはいろいろな意味が含まれますが、このところでの偽教師という言葉には「自分は人々が救われるためにちっとも労していないにもかかわらず、どうでもいいようなことで自分を誇っている連中」ということになるでしょう。

        

3.伝道には真実と熱心が必要不可欠

パウロは人一倍「真実は何か、大切なことは何か」を重要視する気風が強かったようです。
さて、私たちはどうでしょうか?
「うん、私クリスチャンなの。でも絶対押しつけないからね。安心して」なんて言っていないでしょうか?

私たちは確信をもって、そして謙遜に「キリストが私の罪のために死んでくださったこと、そしてキリストを信じたら心が新しく作り変えられたこと」を人々に宣べ伝えたいものです。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

        

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