(2020/05/25記事更新)聖書に書かれている「悪魔に欺(あざむ)かれない」とか「悪魔のやり口」とは何を意味しているのでしょうか?
この記事はこれらの言葉を日常生活に当てはめて解説しています。
1.やりすぎてしまう
「それはまた私たちが悪魔に欺かれないためでもある。私たちは悪魔のやり口を知っているのだから」[Ⅱコリント教会への手紙2章11節]
パウロがコリント教会に送った手紙には目を背(そむ)けたくなるような不品行をしていた人を教会戒規にしたがって裁くようにという命令が書かれてありました。(内容は奥さんのお母さんと肉体関係を持つという現代でもビックリの性的問題)
そのような人を指導もせず放置していたのをパウロの手紙によって責められると今度は一転して教会中でその人を叩(たた)きにかかったようです。
それに対してパウロは「やり過ぎてはいけない」と助言します。
なぜならそのようなことをしていると「悪魔に欺かれる」からであり、「私たちはそのような『悪魔のやり口』を知っているのだから」と述べます。
このことから「悪魔のやり口」とは「やりすぎてしまって元(もと)も子もなくすこと」であると理解することができます。
2.なぜやり過ぎてしまうのか?
①自分が赦されたという個人的体験を持っていない
誰かが罪を犯しているのを見ても、知らん顔ができるのも、十分に悔い改めているにもかかわらず責め続けてしまうのも、その原因は同一です。
それは自分自身の中に「私は赦された」という個人的体験をもっていないからです。
人は自分にされたようにしか他人にできないものです。
それで赦された体験を持たない人は、頭の中でしか考えることができません。
②赦された経験を持っていない人は頭の中だけで考える
この罪を犯していた人を放置したのも、たぶん頭の中で「キリスト教の教えは『赦しなさい』だからな」と考えたのかもしれません。
ところがそれをパウロに非難されると今度は一転して「そうか。キリスト教は聖い生き方を志す信仰だから」というわけで皆でその罪を犯していた人を(悔い改めているにもかかわらず)責め続けるという間違いを犯しました。
なぜこのような間違いが起きるのかというと、それは個人的体験なしに聖書の書かれた文字に拘泥(こうでい)するからです。
もちろん個人的体験のみを重視して、書かれた聖書の文字を軽視するなら、それは熱狂主義に陥ります。
〇私たちは両方の間違いに注意している必要があります。
3.この原則を家庭に適用する
①夫婦関係
夫婦喧嘩のたびに「あなたはあの時、こう言った」とか「お前はあの時もへまをやらかした」などと、昔のことを持ち出す方がおられます。
これは赦しているとは全く言えません。
こんなことを繰り返しているなら、夫婦関係はずたずたになってしまうでしょう。
このような態度をとっていると「悪魔に欺かれることになる」とパウロは述べているのです。
しかし反対に「聖書は『赦しなさい』と命じているから」ということで、本心を抑圧して赦す振りをすることもしてはならないことです。
ではどうしたら良いかというと、それはまず自分自身に「どうしたいか」を聴くことです。
自分が赦された経験を持っていれば、どんなに腹が立ったとしても「そういえば私も赦された身だし」ということで「赦すなどとはおこがましい。赦されなければならないのは私のほうです」という理解にいつかは達します。
②親子関係
お母さん方が顔を真っ赤にして「あなたは何度言ったら分かるの!」と怒鳴っているのを聞くたびに、ありのパパは心の中で「問題は何度言っても分からない人にあるの?それとも何度言っても分からせることのできないあなたにあるの?」と思ってしまいます。
これは単に怒っているのではなく、過去の出来事に現在の出来事を重ね合わせて怒りを増幅させているのです。
このようなことをしてはなりません。
もちろん全然裁かないで放任してしまうなら、それは愛しているとは言えません。
それは養育責任を放棄しているのにほかなりません。
しかし子供が十分に反省しているにもかかわらず責め続けるなら、それは間違った対応です。
子供が悔い改めるなら、赦さなければなりません。
赦すとは、再びその話題を持ち出さないということです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。