(2020/05/18記事更新)人々を慰めることができる者になれたらどれほど素晴らしいでしょうか?
この記事はどうしたら人々を慰めることのできる者になれるのかを解説しています。
1.神になぐさめられた経験を持っている人だけが他者をなぐさめることができる
「神はどのような苦しみの中にあっても私たちを慰めてくださり、また私たち自身もこの神からいただくその慰めによって、どのような苦しみの中にいる人でも慰めることができる」[Ⅱコリント教会への手紙1章4節]
上記の聖書の言葉はパウロという人が書いた手紙です。
そこには神に慰められたという個人的体験が今度は人々を慰めることができる者へと変えられていく鍵であると述べています。
個人的体験として神になぐさめられたという経験をもっていることが大切です。
そうしないと家族を慰めることができませんし、友人を慰めることもできません。
なぜそんなことが言えるのかというと、「儀式は人を殺し、霊は人を生かす」と聖書にあるからです。
〇神の霊によって取り扱われたという個人的体験を通して神の霊は働きます。
その神の霊が私たちを通して人々の心に働くとき、人々は慰められる経験をするようになります。
2.原理・原則を言うと人は反発する
人々を慰めようとして「あなたは何々で何々だからいけないのよ。だから、こうすれば良い」と言っている人が時々います。
しかしながら誰もお説教を聞きたいわけではないのです。
このようなことをするのは善意から「何とか失敗した原因を教えてあげなくちゃ」と思っておられるのです。
しかしこのような場合、失意のうちにある人は心がくたびれており、聞く耳をもちません。
ただ単にうるさがられるのがおちです。
3.自分自身が慰められる経験とは無力を認めることと神への信仰
「生きる望みさえ失い、死ぬことを覚悟し、自分自身を頼みとせず、死人を復活させてくださる神を頼みとするに至った」
この聖書箇所には信仰の基本的な型が示されています。
それは自分の無力を認めるに至った経験であり、神様ならこの私を助けることができると信じる信仰です。
これは12ステップの1と2に当たります。
ということは12ステップの1と2をちゃんと踏んでいる人ならば、誰でも人々を慰めることができるということになります。
無力を認めるに至った道のり→生きる望みさえ失い、死ぬことを覚悟した。
無力を認める→自分自身を頼みとしない。
神への信仰→神を頼みとするに至った。
【まとめ】
皆さんはいかがでしょうか?
「私なんてダメです」と言っておられないでしょうか?
ご自分が個人的に慰められた経験をたしかに持っているなら、他の人々を慰めることが可能です。
◎回復と平安と祝福を祈っています。