(2020/05/11記事更新)心ではイエスを愛するが、聖書は批判的に受取るというのは現代にあってはまともな考えに思えます。
しかし実際にやってみると必ず破綻します。
それは世俗主義であり、二元論であり、心と頭に緊張関係をもたらすからです。
1.世俗主義・二元論的信仰・心と頭を切り離すこと
①世俗主義
世俗主義とは信仰を心の中だけに限定し、自分の生き方や社会の問題にたいしては信仰とは異なる対応の仕方をする考え方です。
パウロは「もし私がこのような生き方をしていたら、激しく反対されることも迫害されることもなかっただろう」と言いました。
なぜ聖書が書かれたかと言えば、それは人間という存在は放っておいたら知らぬ間に世俗主義に陥る存在だからです。
聖書の支えなしに神の愛のスピリットをもって生きていくことが出来るほど私たちは強くありません。
②二元論的信仰
二元論的信仰とはこれが出来たら合格、これが出来なかったら不合格という生き方です。
それはまた律法を守ることによって救われようとする生き方でもあります。
これに対して一元的生き方とは、これが出来ても出来なくても合格という生き方です。
一元的生き方が可能であるのはキリストの十字架によります。
キリストが私たちの代りに合格するのに足りない分を十字架に掛かることによって支払ってくださいました。
〇それで私たちは『信じるだけで救われる』という恵みをいただくことができました。
③心と頭を切り離してはならない
心では神を愛し、頭では聖書を批判的に受取るという考えはまことに結構な意見にも見えます。
しかしこのような考え方・生き方はいとも容易に世俗主義・二元論的信仰に変質します。
なぜなら頭と心を切り離すことは本来はできないことだからです。
そのできないことをやろうとした人たちが作り出したものが世俗主義であり二元論的信仰なのです。
このような信仰に墮した人々は結局燃えるような熱い信仰も失うことになりました。
2.聖書の正しい解釈ができない二つの理由
一つは共感能力の不足です。
もう一つは考える訓練の不足です。
①共感能力を働かす
感じない心のままで聖書を読むと腑(ふ)に落ちないことばかりです。
聖書に登場する人が自分だったらどのように感じただろうかと思いつつ聖書を読むことが大切です。
②考える訓練をする
たとえば「奴隷は主人に従え」と書いてあるから、聖書は奴隷制度を認めているし、自分や誰かが奴隷を酷使することも正当であると考えるのはあまりにも愚(おろ)かに過ぎます。
聖書の他の箇所で「もし自由人になれるのなら、ためらわず自由の身になりなさい」と書いてあるのはどのように解釈するのでしょうか?
〇「聖書は全体として何と言っているか」を考えることが決定的に重要です。
3.聖書の正しい解釈の仕方
旧約聖書から什一献金を見ると、二つのことが分かります。
一つは律法が与えられる前にすでに什一献金は存在していたということです。
アブラハムが戦いに勝利して帰還した際にメルキゼデクという祭司が出迎えました。
アプラハムはこのメルキゼデクに対して戦利品の什一をささげています。
これは律法が与えられるはるか以前の出来事です。
律法が与えられてからは什一献金規定は律法の中に組み入れられました。
キリストの十字架によって律法が成就した新約時代に生きる私たちは什一献金に対してどのような態度をとることが聖書的であると言えるのでしょうか?
ありのパパの理解では律法としての什一献金規定は廃止されたと考えています。
しかし律法が与えられる以前から什一は存在していたのですから什一献金そのものは残っているとも考えています。
ある教会では「什一をしないのは泥棒と同じ」とか「什一をしない人に物質的祝福はない」と教えます。
これは什一献金を律法としてとらえていることの何よりの証拠です。
〇結論として什一献金はしたい人はすれば良いし、したくない人はしなければよいということになります。
この結論では困ると考えるのは宗教を金儲けの手段と考えている人です。
聖書をどのように解釈すれば良いのかという問題は非常に大切な問題です。
この問題から安易に逃げ出そうとせず、しっかりと踏ん張って、聖書の正しい解釈の仕方を身に付けていただきたいと願ってやみません。
◎回復と平安と祝福を祈っています。