霊的賜物は教会の必要を満たすために神が私たちに与えておられるもの

(2020/05/11記事更新)キリスト教会は聖霊の賜物と御霊の実を対立的に捉えてきました。
しかしこれは聖書に忠実な理解ではありません。
この記事は聖霊の賜物の正しい理解とは何かを明らかにし、現実生活に適用する方法について解説しています。

1.聖霊の賜物の「一覧表リスト」

新約聖書のコリント教会への手紙第一の12章には霊的賜物のリストとも呼ばれるものが書かれてあります。
ある人々はこれを機械的に受け取り、霊的賜物には「○個ある!」と決めつけます。
またこの聖書箇所は現代の「預言者運動」の根拠にもされています。
パウロにとってはいい迷惑だと思います。

賜物の一つ一つを見ると、それらは機能において重なり合っています。
たとえば解き明かす力と預言する力は重なり合う部分がとても多いです。

奇跡を行う力といやしを行う力もそうです。
ある人は奇跡的に病気が治ることを奇跡を行う賜物によるとし、少しずつ病気が治ることをいやしの賜物によると言います。
これは詭弁(きべん)に過ぎません。

2.霊的賜物を列挙したパウロの意図は何か?

それは教会の必要を満たすために、神が各々に霊的賜物をお与えになられたということです。
あくまでも目的が優先されます。
目的を実現するための手段は(乱暴な言い方をすれば)何でも良いのです。
環境や地域や時代によって、教会の必要は変わってきます。
そのゆえに教会の必要を満たすための霊的賜物もまた変わってきて当然なのです。
それを聖書の記述を機械的に適用して教会に押しつけるなどはあってはならないことです。

3.問題の本質は賜物ではなく、教会の必要を見分ける心

12章と13章のつながりをどのように解釈するかで、その人の神学的立場が明らかになります。
福音派の人々は「ほらね。やっぱり12章(霊的賜物)は重要じゃないんだよ。愛だけが重要なんだよ。聖書にそう書いてある」と言います。
ペンテコステ派の人々は「そうではない。霊的賜物が重要でないとは聖書は一言も言っていない。そうではなく霊的賜物を活用したとしても、そこに愛がなければむなしいと聖書は言っているのだ」と反論します。

もちろん基本的にはペンテコステ派の主張が正しいのですが、でもどこか言い訳がましい感じがするのはなぜでしょうか?
それは文脈の流れを無視しているからです。
以下はありのパパの理解です。

①親子関係に教会の必要を見抜く秘訣がある

親と子の関係を考えてみます。
子供の必要を見抜くために、親にはどんな心構えがいるでしょうか?

ある小さなお子さんがお父さんの前で、すってんころりと転びました。
その時、お父さんは「どうしたんだ。だめじゃないか、気をつけないと」と言ったそうです。
そうしたところ、そのお子さんはお父さんに向かって「僕がお父さんに言って欲しいのはそんなことじゃない。『だいじょうぶか?けがはないか?』だよ!」と猛抗議したそうです。
お子さんに抗議されて、お父さんは猛反省(笑)。

②共感に満ちた心が、人の必要を、教会の必要を見抜く

教会の必要を見抜くためには、どんな心が必要なのでしょうか?
そうです。愛が必要です。
ではどんな愛が必要なのでしょうか?
それは共感に満ちたまなざしであり、決して上から目線で「ここまで出来たら合格、これが出来なかったらあなたは不合格」と言うような心ではありません。

このような心の持ち主にとっては、賜物リストなどは無用の長物です。
「アホか!」ってなもんです(笑)。
それが何であっても、どのようにしてでも満たそうと一生懸命になります。

考えても見てください。
子供が遊園地に行きたいというのに「パパ、車持ってないから行けない」などと言う親はいません。
電車に乗ってでも、タクシーに乗ってでも、あるいは皆で貸し切りバスをチャーターしてでも、何とかして子供を遊園地に連れていってやろうとするでしょう。

③必要を満たす原則を信者相互の関係に適用する

あなたが牧師なら教会員に対して、どのような眼差し(まなざし)をもって見つめておられるでしょうか?
「礼拝出席は?什一献金は?伝道実績は?奉仕は?」というような眼差しで見つめておられますか?

あなたが教会員なら他の教会員や牧師に対して、どのような眼差しをもって見つめておられるでしょうか?
「あの人、またお休みになったわ」
「よくも毎週、代わり映えのしない説教ができたものね」などと思っていないでしょうか?

一番大切なことは無力を認めることが出発点となっていることです。

律法を守ることによって救われようとする道は、物事を首尾良く成し遂げることによって満足を得、そしたら合格という生き方です。
しかしキリストの十字架を信じることによって救われようとする道は、出来ても出来なくても合格という生き方です。

私たちはどこから来て、どのようにして救われたのでしょうか?
そしてどこに行くのでしょうか?

その生き方は値(あたい)なしに救われた者にふさわしい生き方でしょうか。
もっと厳しく言うと、その生き方をしていて天国に入ることが出来ますか?
私たちお互いは恵みと律法主義が混ざり合わないように心したいものです。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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