(2020/05/08記事更新)「聖書にはこう書いてあるから、その通りにすべき」というのは一見正しいように見えます。
しかし聖書の原則を無視すると脱線します。
この記事は聖書の原則は何かを明らかにし、適用の方法について解説しています。
1.コリント教会のかぶり物問題へのパウロの聖書の原則の適用の仕方
当時のコリント地方には女性は頭にかぶり物をする習慣がありました。
しかし教会の女性たちの中に、かぶり物を付けない人がいたようです。
パウロはそのような女性たちに対して説得を試みます。
パウロの説得は、人類創世から始まって、父なる神とイエス・キリストの関係にまで及びます。
この聖書箇所の前のところでパウロは問題解決の原則を明確に述べています。(コリント教会への手紙11章1節~16節)
それは私たちには完全な自由があるが、それらの完全な自由がすべて益になるとは限らず教会のためになるとも限らないということです。
この原則を女性のかぶり物の問題にもパウロは適用します。
そして最後に「この問題をあなたがた自身で考えてもらいたい」と訴えます。
「あなたがたの地方に女性がかぶり物をしない習慣はありますか?未信者や信仰に入ったばかりの人が慣習を守らないあなたがたの行いを見て、どのように感じると思いますか?」
2.聖書の原則を現実に適用する方法
それは聖書の背景を全く考慮に入れず、聖書の言葉を機械的に適用することです。
このような状態が西欧の教会では長く続きました。
女性はかぶり物をしなければならず、男性は短髪でなければなりませんでした。
このような聖書の適用の仕方は全く間違ったものです。
なぜならこのところでパウロの言いたかったことは現地の習慣に反することをして人々をつまずかせ、ひいては教会の宣教に悪影響を与えることがないように、そのためには自分たちが持っている自由が一部制限されたとしても仕方がないということでした。
これは裏返して言うと、現地の習慣に合わせるということであり、女性がかぶり物をしない地方であれば、その地方にある教会もかぶり物をする必要はなく、男性の長髪が一般的である地方なら、教会の男性たちもまた長髪で構わないということです。
〇これが聖書の原則を現実に適用するということです。
3.現地の習慣に配慮することが現実への埋没になってはならない
間違ってはならないことがあります。
それは現地の習慣に対する単なる追認になってしまってはならないということです。
たとえばアフリカでは現地に重婚の習慣があるからということで、その習慣を追認した教会がありました。
これは明らかに間違った対応でした。
なぜなら重婚の制度を喜ぶ女性はいないからです。
イスラム教の教えでは妻が満足している場合のみ、新しい妻を迎えることができます。
しかし結婚している人なら、どなたでも同意してくださると思いますが、一人の妻であっても満足させることなど決して出来るものではありません。
ということは多くの女性は本心を偽って慣習の奴隷にされているということです。
現在のアフリカでは重婚を認めない教会が圧倒的に多くなったことで、キリスト者の重婚はなくなりました。
(しかし時々、牧師が重婚していたのがばれるという事件が起きているようです)
イスラム教とキリスト教が併存する地域においては、この重婚を認めるか認めないかは個人の信仰の選択において重要な鍵になります。
なぜなら誰も好き好んで自分を抑圧しなければならないような教えを説く宗教を選ぼうとはしないからです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。