教会が裁くべき事項と、裁いてはならない事項を聖書から見分ける!

(2020/04/20記事更新)聖書には一見すると矛盾することが書かれています。
しかし聖書は誤りのない神の言葉であり、正しく理解するなら決して矛盾はありません。
この記事は「裁き」についての二つの命令をどのように適用すればよいかを解説しています。

1.聖書には「裁け」と「裁いてはならない」の二つの命令がある

新約聖書のコリント教会への手紙には、同じ文脈の中で一見正反対に思われることが書かれています。

一つは「裁け」という命令です。

「あなたがたが裁かなければならないのは、教会内のことである。教会外の人たちは神が裁かれる。あなたがたは教会内の罪を犯し続けている人を除名してしまいなさい」[Ⅰコリント05:12,13]

もう一つは「裁くな」という教えです。

「そもそも互いに訴え合うこと自体、すでに敗北である。なぜ、むしろ不正を甘んじて受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか」[06:07]

パウロが「正しくない」というとき、その正しくないは並の正しくないとは訳が違います。
パウロの「正しくないリスト」の中身には、不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、同性愛にふける者、盗む者、どん欲な者、酒に酔う者、人を中傷する者、略奪する者が入っています。

そして、これらの者は例外なく神の国に入ることが出来ない、すなわち救いからこぼれてしまうと宣告されています。
それぐらい大きな罪だとパウロは言っているのです。

しかしパウロはその少し前の部分で「なぜ裁かないのか!」と教会指導部に対して叱責をしています。
そしてその舌の根の乾かぬうちに「裁いてはなりません」と言っています。
パウロは二重人格者だったのでしょうか?
もちろんそうではありません。
パウロにとってはこの二つの教えは少しも矛盾しないどころか整合性を保っていたのです。

2.パウロが裁けと命じたのはどんなケースか?

神の御前で罪であること。
当該箇所には「義母と肉体関係を持ち続けている」ケースが揚げられています。
現代でも、こんなことを聞かされたりしたら「オエッ!」となるのではないでしょうか。
コリント教会の指導部は、この人が一回限りの過ちではなく、継続的に不義の関係を持ち続けているにもかかわらず、何の処罰もしませんでした。
それどころか「自分たちの処置は寛大」だと誇っていたというのです。
寛大などころか、ただの無能者・失格者でしかありません。

この罪を犯した人は教会に対して多額の献金をしたか、または教会の役員をしていたのかもしれません。
それで教会指導部は「さわらぬ神にたたりなし」とばかりに見ざる・言わざる・聞かざるを決め込んだのかもしれません。

3.裁いてはならないと命じているのはどんなケースか?

「互いが互いを訴えあう」とありますから、これは民事訴訟を指していることが明らかです。
クリスチャン同士が未信者の裁判官に裁きを依頼することのおかしさをパウロは考えるように言います。
これはもちろん裁判官がクリスチャンであれば訴訟を起こしても構わないということではありません。

これは現代にも適用できることです。
何もないときに「救われました」「感謝です」と言うのは簡単です。
しかし何かあると途端に顔をひきつらせ、腸(はらわた)が煮えくり返り、「あの人ったら、もう!」とか「あの野郎、覚えとけよ!」となってしまうのは、どこのどなたでしょうか?(笑)

救われた後に私たちは無限に成長していく必要があります。
そして民事訴訟などしなくても済むように、互いが互いを思いやる心を持ちたいものです。

4.教会のカルト化については教会が裁かなければならない

教会がカルト化して信徒が精神的・物質的に損害を被った場合の対応は、どちらのケースになるでしょうか?
「裁きなさい」でしょうか?それとも「裁いてはならない」でしょうか?

ある牧師はカルト化の裁判に関して「なぜ黙っていないのか?なぜだまされていないのか?」と言いました。
この牧師は事件への聖書の適用は、後者の教えを適用することであると疑っていないようでした。

ありのパパには、当該箇所のちょっと前にある「不道徳な罪を犯し続ける人を『裁きなさい』」という命令を、なぜ採用しないのか不思議でなりませんでした。

聖書の「解釈・釈義」は正しくても、現実問題への「適用」を間違ってしまう危険がすべての人にあります。
私たちお互いは誤りに陥らないように常に目を覚ましていたいものです。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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