(2020/04/17記事更新)自己憐憫とは自分を憐れみ、可哀想に思うことです。
この記事は自己憐憫が出てくる原因を明らかにし、自己憐憫を始末する方法について解説しています。
1.自己憐憫は他人を恨む心から出てくる
「あれがなければ今ごろ自分はこうなっていたのに」とか「あの人のせいで自分はこうなってしまった」と考え、自分を可哀想に思っているならば、その感情は有害です。
なぜなら恨みの感情は私たちにストレスを与え、何かによってストレスを解消するように働きかけます。
それは飲酒であったり、ギャンブルであったり、買い物であったり、ときにはパートナーへの暴力行為となって現れたり、反社会的な性行動という形をとることもあります。
①恨みの感情は自分と神を切り離す
私たちの心は三重構造になっており、一番上の表面意識が「自分」であり、その下が「自分自身(本能)」です。
さらにその下に神がおられます。
私たちの本能は超強力な存在であり、それ故に暴走しやすいのです。
ですから私たちは自己意志のみで本能をコントロールする生き方を手放して、神の意志と協働で本能をコントロールする生き方を決断します。
これが12ステップの3にあたります。
暴走しやすいのは自分自身(本能)と呼ばれる部分です。
それで心の表面意識である「自分」が心の一番奥底におられる神と結び付いて、真ん中の「自分自身(本能)」をコントロールします。
この時に恨みの感情があると、神と繋がることが出来ません。
ですから、どうしても恨みの感情を処置する必要があります。
②神の意志とは何か?
神の意志とは正しい判断ということであり、合理的な判断ということです。
この神の意志に私たちはトライ&エラーを繰り返しながら到達します。
依存症者の特徴は「このやり方ではダメだ」と分かっていることを性懲(しょうこ)りもなく「今度こそ大丈夫かもしれない」と考え、繰り返すことです。
「『大丈夫かもしれない』と考える根拠は何か?」と問われても答えることができません。
ただただ妄想に取りつかれたかのように同じ行動を強迫的に繰り返します。
疑似依存症者(パラアルコホーリク)と呼ばれるアダルトチルドレンも同じです。
依存症者やACが回復するというとき、それは不合理な判断を捨てて、合理的な判断が出来るようになることを指しています。
2.自己憐憫は自分を裁く心から出てくる
「あの時、もうちょっと頑張っていればなぁ~」とか「何で自分はちゃんと出来ないんだ」と思う心は他人を恨む感情と同じぐらい有害です。
なぜなら自分を裁く心は自分自身を恨んでいるのと同じだからです。
自分と自分自身の健全な関係は、何かが出来なかったり失敗した時、間髪(かんぱつ)を入れずに「そういうこともある。気にしないことだ。ドンマイ!」と自分が自分自身に言ってあげる関係です。
しかし自分を裁く心があると、ただでさえ弱っている自分自身をさらに弱らせます。
まさに「青菜に塩」です。ペッチャンコになってしまいます。
3.他人を恨むのも自分自身を裁くのも本質において同一
片方だけ捨てることはできません。
捨てるときは両方です。
他人を恨むのを止めるようにすると、しばらくすると自分自身を裁いていたのに気づくようになります。
逆に自分自身を裁くのをやめ、積極的に赦し受け入れていくようになると、しばらくすると他人を当たり前のように恨んでいたことに気づくようになり「こんなことをしていてはいけない」と感じるようになります。
他人を恨むことを止め、自分自身を裁くことを止めるとき、不思議なことが起きます。
自分の中から自己憐憫がなくなっているのに気づくようになります。
「自己憐憫って何?」と思うときが必ずやってきます。

◎回復と平安と祝福を祈っています。