(2020/03/09記事更新)「ステップ6・7にどう取り組めばよいか分からない」という方はおられませんか?12ステップの核心は6・7にあります。
この記事ではなぜ6・7をやる必要があるのかを明らかにし、やり方を解説しています。
1.恨みの感情を抱えたままでいると、再び『狂気』の感情が頭をもたげてくる
狂気の感情とは、最初の一杯の狂気であり、強迫観念のことを指しています。
このような状態では再飲酒(スリップ)は時間の問題ということになります。
私たちが恨むようになった理由に利己主義と配慮の欠如があげられます
利己的とは自分のことしか考えてないことです。
配慮の欠如とは相手のことを考慮しないことです。
利己的であっても配慮を欠かさない人もおりますし、利己的でなくても配慮が欠如している人もいます。
私たちが恨むに至ったトラブルの原因になるものは何かを考える時、自分が利己的であったからトラブルが起きたのか、それとも配慮が不足していたから結果としてトラブルが起きたのかを知ることが大切です。
2.恐れの棚卸し
些細(ささい)なことから始まったことが、相手の反応を引き起こし、更にそれが自分のなかにある恐れを増殖させていきます。
この連鎖反応を引き起こしたのは自分ではなかったでしょうか?
そしてそれを放っておいてたのも自分ではなかったでしょうか?
神に自分の意志と生き方を委ねていくとき、自分の中の恐れはだんだんと小さくなっていきます。
自分で決めるタイプの人ほど恐れは強いものです。
もしそうだとしたら「自分で決める」という生き方を少し和らげる必要があります。
恨みの感情の中には「相手を自分の思い通りに変えたい」という思いがありますが、相手は少しも変わりません。
恨みによって変わってしまうのは自分の心と自分の人生でしかありません。
そういうわけで第5ステップをやらないと再飲酒する危険が飛躍的に高まります。
また建前と本音という二重生活を送らざるを得ないようになります。
3.どうしても相手の間違いに目が行ってしまう時
大切なことは人の間違いではなく、自分の間違いだけに焦点を当てることです。
それでもなお、相手の間違いに目が行ってしまうこともあります。
そのような時は、相手を「自分と同じ霊的病をもっている人」と見るようにします。
また将来、彼らの助けになることはできないだろうかと考えます。
〇恨みの感情では人も社会も変わりません。
恨みを克服し、愛をもって人や社会を変えていこうとするほうが長続きします。
4.不正直をどのようにして取り除けばよいのか?
無理矢理正直な人になろうとするのではなく(そのような努力は徒労に終わりがちです)、「正直な人ならどのように行動するだろうか?」と考えることを習慣にします。
私たちが日々の生活の中で行動を変え続けていくとき、正直な行動のほうが自分にとって得であると気づくようになります。
そして、そのように生き続けていくと、自分の中にすでに不正直が存在しないのを気づく時がやってきます。
そうです。このような営みをコツコツと繰り返していくなかで、神が不正直という短所を取り除いてくださるのです。
行動を変えていくときに、心もまた後追いで変わっていくのです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。
ありのパパさんへ
お早うございます。
「第5ステップをやらないと…、再飲酒する危険が飛躍的に高まります。本音と建前の二重生活を送らざるを得なくなります。」
激しく共感しました。全くもって私のことです。
今はもう、記憶が跳ぶ程泥酔はしませんが、日曜日などは特に、礼拝→買い物、子供の遊び相手→家に帰ってから料理をしながらグビグビ、のパターンがすっかり定着してしまいました。(泣)すでに良心の呵責を覚えなくなっているところも恐ろしい。
職場でも、なんちゃってクリスチャン、ヘタレ信徒を公言しているので、全然証になっていない(二重生活)→伝道しない→導かれる人が起こされない→「俺じゃない誰かが、伝道してくれんじゃね?」→現実逃避、自己正当化して誤った予定説に傾倒、ん~、神様のため息が聞こえそうです。
棚卸し表作成を先送りせずに、家族に内緒で仕事を休んででも取り組むか検討中です。(検討している時点で先送りしているような…)
こんばんは、マッキーさん。
コメントをありがとうございます。
マッキーさんはアルコール依存症ですか?(笑)
もしそうなら勿論一滴も飲むことはまかりなりませんが、そうでないなら何の問題もありません。
もし、教会の教義が絶対禁酒をうたっているとして、その方面から問題にされておられるのなら、それは宗教的な問題であって依存症の問題ではないということになります。
12ステップは宗教的なプログラムではなく、霊的なプログラムです。
マッキーさんは私から見てACであることは間違いないが(私が決めつけてどうする)、アルコール依存かどうかは不明です。
「ふっとラクになる感覚」があり、飲んでいるときだけ本来の自分に戻っている気がするというのなら、アル中の可能性を疑ってかかる必要があります。
しかし依存症の第一条件は「まともな社会生活が営めなくなる」ことです。
よろしくお願いします。
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのパパさんへ
返信ありがとうございます。
確かに私の場合、宗教的な問題のようです。
教会では飲酒、喫煙、ギャンブルなどは、卒業すべき悪習慣とされているようです。
私がアルコール依存症かどうかは、グレーゾーンと申しますか、狭い意味(重大な支障が社会生活上ある)では無いようですが、広い意味(やめたくても、なかなかやめられない)では該当するようです。
アルコール依存症の予備軍という事なのかも知れません。
本気で取り組む姿勢がないだけかも知れません。
お騒がせしました。どうもすみません。
おはようございます、マッキーさん。
コメントをくださり、ありがとうございます。
「やめたくても、やめられない」というところが問題の核心であると(私が勝手に)感じました。
なぜなら聖書には「酒を飲んではならない」と書いていないにも拘らず、マッキーさんはどうしても酒をやめたいと願い、そうできないご自分に問題を感じておられます。
あえて乱暴に踏み込んでしまうなら、やめたいとマッキーさんが願うのは完全・完璧なクリスチャンになりたいと願っておられるからではないでしょうか?
しかしキリスト教は完全を目指す信仰ではなく、成長を目指す信仰です。
聖書に「酒に酔ってはなりません」と書かれてあるなら、「泥酔しない程度に飲めばよい」と受け取るのが普通ではないかと、私は考えています。
マッキーさんはどのようにお考えでしょうか?
またコメントしてください。お待ちしています。
ありのパパさんへ
まず、誤解を招いてしまったようです。すいません。
私ほど完璧、完全を求めていないクリスチャンも珍しいかも知れません。(笑)
義母が占いやスピリチュアルなんたらのテレビ番組を観ていても、穏やかに見ない方が良いと注意する程度ですし、家事を進めたい時は、なるべくアンパンマンに誘導していますが、娘にプリキュア(ニューエイジの影響)や妖怪ウォッチ(妖怪メダルで妖怪を召喚するところから黒魔術の影響大)を見せまくりです。(泣)
神学がわからなくても、満足に聖書が読めなくても、イエス様を愛する素朴で純真な信仰が有れば良いんじゃね?というくらいaboutで、いい加減、じゃなくて寛容ということにしておいてください(笑)。
お酒についてですが、タダでは無いですし、飲まないでいられるなら、その方が良いというスタンスです。
ありのパパさんの仰る通りだとも思いますし、(パウロは酩酊を禁止していますが、別の箇所でテモテに健康のために少量の葡萄酒も勧めていますね)箴言に「祭司は杯から溢れる葡萄酒を見てはならない」から絶対禁酒の方々がいても、そうですか、がんばってください、という感じです。
こんばんは、マッキーさん。
コメントをありがとうございます。
段々、訳が分からなくなってきたところで、このやりとりはお終いにしたほうがよさそうですね(笑)。
またコメントしてください。お待ちしています。