自発性にもとづいてやるのが真の奉仕

初めのうちは喜んでやっていた教会の奉仕が段々と重荷に感じてくる理由は何でしょうか?
また、奉仕をする・しないでモメる原因はどこにあるのでしょうか?

        

1.牧師の人間的思惑の問題

信徒が奉仕を重荷に感じ、その奉仕を止めたいと牧師に言うと、牧師が信徒に向かって「それは神様のみこころですか?よく祈りましたか?」と聞かれることがあるそうです。
牧師がみこころかどうかを信徒に問うとき、牧師自身もまた信徒に示された御意(みこころ)に従う気持ちを持っていなければなりません。
それは奉仕を止めることが御意であるとなれば、それを喜んで受け入れなければならないということです。

「仕方ない」とか「人がいないのに」とか言うようであれば肝心要の牧師が御意に従っていないことになります。
案外、肉的・人間的な思いに牧師が支配されていることが多いのではないでしょうか。
奉仕者が一人減ると困るとか、ここは何とか御言葉を弄(ろう)してでも信徒を説き伏せようと内心では思っていないでしょうか?

まず牧師自らが、そのような人間的思惑から解放されて、自分(牧師)を困らせることのない神に絶対の信頼を置いて生きていくことが肝要です。

        

2.奉仕を断れない信徒の問題

①文化の問題

人の目を気にする村社会意識が教会の中にもあるようです。
ですから奉仕を断ると牧師や教会員は自分をどんな目で見るだろうかとの恐れにさいなまれて本音で行動できません。

②依存の関係

イエスに依存している場合は何のトラブルも起きませんが、人や組織(教会)に依存している場合は問題が起きます。

依存とは自分は自立しようとせず、お手軽な何者かに身を任せてしまい「あとはよろしくね」ということですから、いかにも子供っぽい行動パターンです。

要するに依存するということは、聖書が教えるところの偶像崇拝なのです。
神は、人が神以外の何者からも自立した存在であることを願っておられ、そのように成長していくための道を備えていてくださるのです。

③ゲームをしている

奉仕をやりたいと言ったり、やめたいと言う人の中に、心理的ゲームをやっている人がいます。
人の注目や歓心を買いたいために奉仕を買って出て、また同じ理由で奉仕がしんどいと嘆きます。

「じゃぁ、やめれば」と言えば「人のことをなんだと思ってるの!」と憤慨し、引きとめれば「自分はやっぱり必要とされているんだ」とほくそ笑みます。
しかし長続きしません。
このような奉仕者は案外多くいます。

        

3.奉仕は自発性にもとづく

ではどうしたら良いのでしょうか?
やりたいときはやり、やらないときはやらない。
これに尽きると思います。
ただし、契約は一年ですから、その年度の終わりまではやり続ける義務はあります。

信徒が「奉仕させてください」と言いに来たら、「なんにもしなくて良いから、邪魔だけせんといて」と言えばよいのです(笑)。
そうすると「本当は自分抜きのほうが神の業はより早く進むのだが、私を愛しておられる神は私の成長のために福音の宣教の一端を担わせてくださるのだ。本当にありがたいことだ」という理解を持ちます。

じつはこれがありのパパの自己認識でもあります。
人間というものはどこまで行っても「お邪魔虫」でしかない存在ではないでしょうか?

◎平安と祝福を祈っています。

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