律法主義と福音信仰はいつでも対立する。そのたった一つの理由とは?

(2020/02/26記事更新)新約聖書の『使徒の働き』には二つの主題があります。
一つは「救いと律法」の関係であり、もう一つは「救いと聖霊に満たされる」ことの関係です。
この記事は「救いと律法の関係」について解説しています。

1.エルサレム教会がパウロの味方をしなかった理由

「彼(パウロ)は、できれば五旬節の日にはエルサレムに着いていたかったので旅を急いでいた」[使徒20章16節]

この五旬節とは初めて聖霊が降臨した五旬節から何回目の五旬節だったのでしょうか?
聖書にはそれについて書かれていませんので不明です。

しかし聖霊がパウロに明らかに語られたのは「エルサレムに行くなら、そこで捕らえられる」ということです。
この情報は教会に広く行き渡っていたようです。
エペソの信者たちも知っていたようですし、ユダヤから来た預言者もエルサレムに行くならば、パウロは捕らえられると預言しました。
パウロの伝道旅行の同行者たちも、そのように考えていたことが聖書に記されています。

何万人もの信者を抱える歴史上最大級の教会であったエルサレム教会の存在を考えるなら、このような状況は考えにくいと言わなければなりません。

なぜなら何万人もの信者がいる教会は有力な圧力団体でもありますから、パウロが官憲に捕らえられることに対する抑止力になるはずです。
そうであるにもかかわらず誰も彼もが「エルサレムに行ってはならない」と言うのです。

なぜでしょうか?
ありのパパの推測は、この当時のエルサレム教会は律法主義が支配的であり、だれもその圧力に抗することが出来ないほど圧倒的な勢力を持っていたのではないかというものです。
だから福音主義に立つパウロを助ける勢力がエルサレルム教会の中にはいなかったということです。

2.パウロのたった一つの目的

パウロ以外の人たちは当然のことながらパウロの身の安全を心配しました。
しかしパウロには別の目的がありました。
少なくともパウロには無駄死にする気はなく、そのためなら死んでも良いと思える目的があったようです。
だからこそパウロはこう述べました。

『私は自分の走るべき行程を終えて、主イエス様から受けた神様の恵みの福音をはっきり宣べ伝える任務を果たすためなら、自分の命など、どうなっても構わないと思っています』

パウロの殉教の目的はただ一つ。
それは神から委ねられた福音の内容をしっかりと保持することと、その福音を宣べ伝えることです。
この目的のために「エルサレムに行って死ぬ」と言っているのです。

3.エルサレム教会と律法主義クリスチャン

エルサレム教会の指導者たちがパウロを守ろうとしなかった理由は教会の中のいる律法を今も熱心に守る人々を恐れていたのです。

その理由は彼らの数がごく少数ではなく何万人もいたことによります。
しかし彼らが教会の中で猛威を振るい、教会の指導者も彼らを恐れていたというのは神の御心に背(そむ)くことです。

牧師のヤコブを初め長老たちは教会内の律法主義的クリスチャンに対して融和的姿勢を取るようにパウロに懇願(こんがん)します。
しかしそのような融和的姿勢はいつの時代であっても敵の凶暴さの故にやがて木っ端(こっぱ)みじんに吹き飛んでしまうものです。

4.律法主義とはなにか?

律法主義とは言葉通り、神の戒めをことごとく守ることによって救いに到達しようとする考えです。
この律法を与えたのは神ご自身ですから、元はと言えば律法主義の創設者は神であるとも言えます。
しかし律法が与えられた真の目的は別のところにありました。
それは律法を守ることによっては誰一人として救いに到達する人はいないということを、私たちが徹底して知ることにありました。

しかしユダヤ人は律法を守ることが出来ると考えました。
神の御前では、それが罪なのです。

父なる神によってイエスがこの社会に与えられたとき、律法を守ることによっては誰一人として救いに到達し得ないと悟った人々は、こぞってイエスをキリストであると信じました。
このキリストこそ、神が人類のために与えられた新しい救いへの道でした。
この新しい道とは、律法を守ることによって救いに到達しようとするのではなく、信仰によって救いに到達する道です。

律法とは「達成できた」「達成できなかった」という二元の価値観です。
しかし信仰による救いは、信じる者の内実を問題にせず、ただ信じることによって救いに到達できるとする価値観です。

5.信じるだけで救われる理由

なぜ信じるだけでよいのでしょうか?
それは信じる対象、すなわちイエス・キリストが私たちのすべての罪を担って十字架に掛かって下さったので、私たちの罪はすでに処置済みとなっているからです。
だ・か・ら、そのイエスを信じるだけで私たちは救われることが出来るのです。

ではなぜ彼らは救われたにも係わらず、律法を守り続けたのでしょうか?
また教会の指導者たちは、なぜ彼らに対して「あなたがたは既に救われたのだから律法を守る必要はない」という指導をしなかったのでしょうか?

ここに人間の弱さと愚かしさがあります。
しかし神はその弱さや愚かしさをお見逃しになさいません。
彼らの選択の結果として、エルサレム教会はキリスト教歴史の中から消え去りましたし、イスラエルという国家さえ滅びなければなりませんでした。

これを他人事としてはなりません。
世界中で一番ユダヤ人に似ていると言われる民族はどれかご存じですか?
そうです。私たち日本人です。
戦前の日本国民の選択、また最近における安部政権の振る舞いに対する日本国民やマスコミの対応を見ていると、今日の聖書箇所におけるユダヤ人信者を恐れる教会指導者の弱腰が重なって見えるのは思い過ごしでしょうか?

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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