(2020/02/07記事更新)「もう大丈夫。あなたは救われた」との福音宣言のメッセージを伝えるカトリック神父がおられます。
この記事では新普遍救済主義と呼ばれる論が聖書的かどうかを明らかにし、福音主義キリスト教が倣うべき点を解説しています。
1.キリスト教各派の万人救済主義一覧
①キリスト教リベラル派の万人救済主義
話を聞く限りにおいてはカトリックの新普遍救済主義と中身は同一のようです。
すべての人は『既に』救われており、全員が天国に入れるという教えです。
②キリスト教福音派のセカンド・チャンス
この教えの特徴は「信じれば救われる」というキリスト教の骨格を残しつつ、万人救済主義を実践しているところにあります。
死後にもう一度、信じるチャンスが与えられるとします。
この点はカトリックの練獄の思想と共通点があるように見えます。
死後に信じるチャンスを与えられて、なお信じない人がいるでしょうか?
この論を主張している方は「それでもなお信じない人もいるだろう」と言っています。
しかしこれは「信じて救われる」というキリスト教の骨格を残しているかのように見せかけるための詭弁に過ぎません。
➂あるカトリック神父によって宣証されている新普遍救済主義
この論には古い部分と新しい部分があります。
古い部分とは教えの骨格の部分は旧態依然たる万人救済主義の教えに過ぎないということです。
新しい部分とは万人救済主義をカウンセリング的アプローチによって人々に適用しているところです。
リベラル派の万人救済主義や福音派のセカンド・チャンスが死後に救われると宣言する目的は、人々を恐怖から解放することであり、それによって宣教を容易にしようとする狙いが透けて見えます。
しかしあるカトリック神父によって宣証されている新普遍救済主義は、今苦しんでいる人に慰めと励ましを与えることを第一目的にしているように見えます。
2.新普遍救済主義をどう理解するか?
プロテスタントの万人救済主義は死後に救われるかどうかという多くの人々にとってはどうでもいいことを問題にしています。
だからこそ人々から冷めた反応しか返ってこないのです。
しかしカトリックの新普遍救済主義が問題にしているのは死後の救いではなく、今を生きる「この私」の苦悩を解決してくださるお方の救いを提示しています。
①新普遍救済主義と福音主義キリスト教
聖書信仰に立つキリスト者はカウンセリング的アプローチが苦手です。
「聖書を学ぶことから始めましょう」などと真顔で言ってしまいます。
このようなことが平気で言えるのは人々に対する共感的理解が欠落しているからです。
これは明らかに聖書の教えに反しています。
キリストが私たちを愛してくださったように、私たちも他の人々を愛していきたいものです。
私たちもまた「もう大丈夫。あなたも救われる!」と宣言していきたいものです。
②宣教論と救済論
この神父さんは「救済論の視点から言えば救われる人と滅びる人がいるというのは、もっともなことかもしれない。しかし私は今苦しんでいる人に向かって『あなた、信じないと地獄だよ』とは言うことが出来ない」と明確に述べておられます。
要するに、この方は救済論の視点からではなく、宣教論的アプローチを優先させているということです。
福音派にも宣教論的アプローチを優先させた方がおられました。
そうです。故ピーター・ワグナー先生です。
この方は働きの終盤にはカルトと言わなければならないようなところにおられました。
この事実が救済論よりも宣教論を優先させることの危険性を明確に示しています。
➂信仰義認とカウンセリング的アプローチは両立しないか?
そんなことは全然ありません。
完全に両立します。
両立するどころか、それが本来のキリスト教信仰なのです。
新約聖書の使徒の働きを見ると、ここかしこにカウンセリング的アプローチの実例を見ることが出来ます。
ありのパパなどは「お~い!そんなに簡単に洗礼を授(さず)けちゃっていいのかい?」と突っ込みを入れたくなるほどです。
しかしこれが初代教会の信仰の有り様(ありよう)だったのです。
そうであれば聖書信仰を旗印にする私たちも初代教会の信仰にならう必要があります。
3.カウンセリング的アプローチとキリスト教信仰
傲慢になってはいけませんが、聖書信仰を旗印にする福音主義キリスト教は聖書の教えそのものと言うことが出来ます。
それで私たちは確信をもって全てのことを聖書と照らし合わせ、物事の真実と道理をわきまえようとします。
しかし宣教論の視点から見ると「もう大丈夫。あなたは救われた」というのが最も効果的なアプローチであると言わなければなりません。
そうであれば聖書信仰に立つ私たちもまた聖書信仰をしっかりと保持しつつ、彼にならって「もう大丈夫。あなたも救われる」と人々に宣言していくべきです。
(おことわり)
宣教論的・カウンセリング的アプローチの有用性を認めたからと言って、万人救済主義を認めたわけではないのは勿論のことです。
ここで申し上げたいことは、聖書信仰を保持しつつ、改善するところは改善していこうということです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。