あたかも欠点が取り除かれたように振る舞うのと欠点がないフリの違い

(2020/02/05記事更新)あたかも欠点が取り除かれたように振る舞うとはどのような生き方を意味しているのでしょうか?
この記事では「取り除かれたように振る舞う」生き方の極意を解説しています。

ステップ6と7で私たちは神に自分の性格上の欠点のリストを差し出して、「神様、このリストにある短所をすべて取り除いてください」とお願いします。

具体的には日々の生活の中でどのように振る舞うことが神に欠点を取り除いてもらう秘訣なのかというと、それが「あたかも欠点が取り除かれたように振る舞う」ことだと教えられています。

これを教えられたとき、ありのパパは正直「ムリ!」と感じました。
なぜならACであるありのパパはそんなことを言われる前から欠点がない振りをして生きていたからです。
ですから、この教えを実行することは以前の生き方へとバックスライドすることになると考えました。

しかし、そうではありませんでした。
なぜなら『欠点がない振りをする生き方』と『あたかも欠点が取り除かれたかのように振る舞う生き方』は天と地ほどの差があるからです。

この両者は言葉にすると似たようなものに見えますが、実際は全く正反対の生き方です。
片方は自分の欠点に気づかず、または薄々気づいていても気づかない振りをします。
これを否認と言います。

それに対してもう片方は自分のうちに欠点があるのを認めているだけではなく、具体的な短所リストさえ持っています。
そしてそれらの短所を神に取り除いてもらうことを求めます。
その上で神が短所をすべて取り除いてくださったかのように日々の生活を生きていきます。

否認はボタンの掛け違えのようなものですから、いまだスタートラインにさえ立っていません。

しかしもう片方の「あたかも取り除かれたかのように生きる」生き方は神の御業を促進させます。

以上のことから、否認する生き方は神の御業を妨害する生き方であり、あたかも取り除かれたように生きる生き方は神の御業を促進する生き方であるということがお分かりになられたでしょう。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

        

メール登録をお願いします!

新しい記事を見逃したくない方はメール登録をどうぞ!新記事をメールでお知らせします。

タイトルとURLをコピーしました