(2019/12/11記事更新)人に変わって欲しいと願うなら、相手を変えてやるという思いを手離すことが必要です。
この記事では引っ掛かりやすいカラクリについて明らかにし、自分が変わり、人が変わる方法について解説しています。
目次
1.人を変えてやりたいという思いの中に病的な支配欲求はないか?
もし本当に神に変えていただきたいと願うなら「手離して、あとは神にお任せ」しなければなりません。
「お前は変われよ!」という思い込みは修正されなければなりません。
実はその思いは「どうやってでも人を変えてやる」という思いであるからです。
これは病的な支配欲求・コントロール欲求です。
「変えてやる!」と心の奥底では思っているくせに、口では「みんな変えられていきましょうね~」などと御為倒(おためごか)しを言っているのです。
かつてありのパパはどうやって人を変えてやろうかと思っていました(お腹の中で)。
それを言葉だけ「神」という単語に置き換えていたのに過ぎないことを、あるとき気づくことが出来ました。
2.どうしても変わってもらわなければならない人に関わっている場合
万引きしたり、暴力を振るったり、登校拒否しているお子さんのご両親は「ありのままでいい~!」と歌っているわけにはいきません。
そのお子さんが成人に達しているなら、それぞれの依存症の12ステップグループに行かせるのが最善ということになります。
未成年であれば、ご両親がカウンセラーの元を尋ねることになります。
①人はどこで躓(つまず)くか?言葉を表面的に受け取らない
たとえば万引きしているお子さんがいるとします。
その場合、カウンセラーが「ありのままのお子さんを受け入れてあげてください」と言うと、親御さんは途方にくれます。
「ありのままって言ったって、万引き放題でいいってか?」とお腹の中では突っ込んでいるのですが、口には出せません。
このカウンセラーが言った言葉の真の意味は「お子さんの問題行動を解決するために、お子さんの問題行動に焦点を当てるのではなく、存在に焦点を当て、行動が良くても悪くても『あなたは私の子だ』ということだけで肯定し、受け入れてあげてください」ということです。
これは頭では何となく分かったような気にはなりますが、実際は「ふ~ん」という感じで次の瞬間には頭の中から過ぎ去ってしまいます。
理由は親御さん自身が受容されて育てられていないため、「受容って何?」状態であるので「受容してください」と言われてもチンプンカンプンだからです。
②解決の道はただひとつ。自己受容
もう一人の自分である自分自身を受容する練習をします。
自分が自分自身という聞き分けのない引っ込み思案な存在の善きマネジャー(愛ある親)となるのです。
はじめのうちはどんなに良くしても自分自身は顔を出してきませんし、なにも言ってきません。
それはそうです。
何十年もいない振りをして、ほっぽらかしていたのですから、すぐには信用されません。
しかし辛抱強く善きマネジャー(愛ある親)として接し続けるなら、あるときから自分自身という存在が生き生きとしてくるのを感じるようになります。
矢澤栄吉さんが「俺って、グレイト!」と言っていますが、あれを自分自身に向かって「お前って偉い!お前はすごいよ!」と言ってあげるのです。
「俺はすごい」と言うなら高慢ですが、「お前はすごい」と言うのなら何の問題もありません。
それはただ他の人を誉めているに過ぎないのですから。
3.自己受容と聖書の教えの整合性
ある人々はこのようなお話を聞くと嘘くさく感じ「これは一人芝居ではないか」と言います。
しかし、そうではありません。
「自分自身を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という 主イエスの御命令は理念的な命令ではなく、言葉通りに受け取り実行されなければならない教えです。
これを一人芝居であるとか、聖書の教えから離れた世俗的な教えであるとすることは、主イエスがもっとも大切な戒めであるとされた教えを真っ向から否定することにほかなりません。
「人を変えてやりたい!」という思いを手離して自分の手が空っぽになったら、今度は自分自身を愛するように家族を愛することに全力で当たりたいものです。
◎回復と平安と祝福を祈っています。
ありのパパさんへ
こんにちは。初心者なので、基本的なことかも知れませんが、教え下さい。
自己受容とは、
①普段の自分
②普段の自分を客観視する自己
②が①を受け入れて、マネージメントするという理解でよろしいのでしょうか?
私も自分の隣人である家族を愛することに全力で当たりたいものです。
道のりは遠く、険しい…。でも楽しい!!
おはようございます、マッキーさん。
コメントをありがとうございます。
そうです。その通りです。
その線で行ってください。ご健闘をお祈りしています。
またコメントしてください。お待ちしています。