せっかくキリスト教の信仰を持っても、何年かすると教会から姿を消してしまう人々がおります。
その理由と解決策を考えます。
1.教会のメンバーが定着しない理由
我が国の教会では「信者が教会の前の門から入ってきて、しばらくすると教会の後ろの門から出て行ってしまう」ということが以前から言われていました。
そのゆえに日本の教会の人数はいつも一定というか、同じ人数にとどまっているということになります。
①律法主義的物差しを教会のメンバーに当てている
「彼らは信仰によって得ようとしないで、自分の行いによって得ようとしたからである。彼らはキリストに躓(つまづ)いたのである」(ロマ書09:32)
以前からの教会メンバーを見ると、悪いところばかり目につきます。
「教会の人々が律法的に見える」「教会員に不道徳な人がいる」と様々です。
しかしそれらは皆、自分自身が律法主義という物差しで測(はか)っているだけに過ぎません。
教会の人々に律法主義的完璧さを求め、その押し付けた物差しに届かないとき教会から去って行きます。
日本人クリスチャンが教会から去っていく理由の一つがここにあるのではないでしょうか。
②我力で救われようとするのか?無力を認めて救われようとするのか?
自分の努力で何とか救いに到達しようとする人にとっては、キリストは躓きの石です。
同様に、自分の努力をやめてキリストに信頼して救われようとする人々は、目の上のたんこぶのような存在です。
そのような訳で、努力によって救われようとする人々から、キリストを信じることによって自分の努力なしに救われようとする人々は常に非難・攻撃されます。
「しかし彼に信頼して歩む者は決して失望させられることがないのです」(イザヤ29:16.ロマ9:33,10:11.1ペテロ2:6)
2.なぜキリスト者は救われた後も律法主義的傾向を持ち続けるのか?
①それが人間の本質的特徴であるから
こう言ってしまっては実も蓋もないかもしれませんが、あの初代教会のエルサレム教会でさえも律法主義の魔力に負けてUターンしてしまったのです。
新約聖書の書簡を読むと、ほとんどのテーマは律法主義に戻ってはならないということです。
②日本特有の宗教的文化
どちらかというと日本人は何でも信じてしまうところがあります。
昔は「いわしの頭も信心から」という言葉がありましたし、ちょっと前ですと、こっくりさんブームがあり、SFや超能力と宗教を結びつけた新新宗教が流行ったこともありました。
みなさんがよくご存じのオーム真理教や幸福の科学などの荒唐無稽(こうとうむけい)な宗教が日本ではもてはやされます。
ここから分かることは、日本人は極端な無神論的世界観をもっている一方で、人生観はきわめて宗教的であるということです。
これがキリスト教のように人生観と共に世界観をも提示する宗教が、日本では受け入れられていない理由です。
小難しい世界観なしに「ちょっと良い話し」のたぐいの宗教的人生観だけを提供する宗教はさかんです。
しかし包括的な世界観を持たない宗教は、個人的問題には解答を出すことが出来ても、社会的・国家的・地球規模の問題には答えを出すことができませんから、結局行き詰まることになります。
3.教会の側にある問題
①教会にも告知義務がある
このような宗教的文化を持つ人々にキリスト教の独自性、即ち人生観と共に世界観をも提示する宗教であることを前もって伝えないまま入信させてしまうと、信じた人々にとっては「これは話が違う」ということになります。
牧師の中には、そこまでキリスト教を開陳してしまったら、今でも信じる人が少ないのに、信じる人が誰もいなくなってしまうと言う方もおられます。
しかし信じたあとに「実はこうでした」とやるやり方は詐欺と同じです。
神の国の大使館である教会には、このようなやり方は許されていません。
神と契約を結ぶ前に、あらかじめ告知しておかなければならない義務が教会にあり、それを守っていないなら、その契約は無効です。
②律法主義と信仰によって救われることの本質的違いを教えていない
信じることがお手軽な我が国の人々であるゆえに、宣べ伝える側は格別に注意が必要です。
しかし実は教会の側も律法主義と信仰によって救われることの本質的違いが分かっていなかったりします。
いわく律法主義は駄目だが「証にならないことはしてはならない」とか言われたりします。
しかしよく考えてみると、証になれるような自分なら、そもそもキリストを信じる必要があったのかということにならないでしょうか。
もうすでに律法主義的生き方が浸食し始めているのです。(誤解のないよう申し上げておきますが、これは罪を好き勝手に犯し放題で良いとか、無礼でも良いということを意味していません。そのように考える人々は未だに自分自身が罪人であることを気づいていないのです。悔い改めからやり直さなければなりません)
救われるために無代価で良いということは比較的容易に理解できます。
しかし救われたあとの生活や人間関係において律法主義的でない生き方とは、どのようなものかを理解するのは大変難しいことです。
残念ながら、そのような信徒教育は教会では全く行われていないように見えます。
これがクリスチャンが教会を去っていく最大の理由であると、ありのパパは考えています。
③律法主義的でない生き方と人間関係とは?
ここが肝心です。ここがよく分かっていないと救われた喜びは持っていても、生活は依然として以前のままという笑えない冗談のようになってしまいます。
a.人々を裁かない
人を裁くとは、自分が定めた合格点に達しない人を駄目な人と感じることです。
これをやっている限り、クリスチャンとは言えません。
なぜかと言えば、自分は不合格であったにもかかわらず、キリストが私の代わりに死んでくださったゆえに救われることができたのに、依然として他者には「お前はこうなれ、ああなれ」と命じる生き方をしているなら、それは契約違反だということです。
b.自分自身をありのままに受け入れる
他者をありのままに受け入れることができない最大の原因は、自分自身のありのままを自分が受け入れていないからです。
自分が自分自身をありのままに受け入れていれば、必ず他者をありのままに受け入れることができるようになります。
このように言うと、「私は親にありのままを受け入れられなかったので、自分自身のありのままを受け入れることができないのです」と仰る方がおられます。
確かにその通りですが、このように仰る方は大事なことを忘れています。
それは昔は養育者が親であったかも知れませんが、今はあなたがあなた自身の親なのだという事実です。
自分が自分自身の親であることの責任を棚上げにして、昔の親にすべての責任をなすりつけるようなまねをすべきではありません。
親替えを行い、日々の生活の中で自分自身をしっかりと受け入れ愛していくならば、必ず心が変わり、生活が変わり、人生が変わってまいります。
◎平安と祝福を祈っています。