万人救済主義の背景には神に対する誤解がある

万人救済主義という一見ヒューマニズムにあふれた思想があります。
しかしこの思想の背後にあるのは神への誤解です。
どのような誤解にもとづいて誤った主張がされているのかを見ます。

        

①神の愛は無条件であるが、無制限ではない

神の愛を説く聖書の箇所は数多くありますが、それらは神の愛が無条件であることを説く箇所と、神の愛が無制限ではないことを説いている箇所に分かれます。

神の愛が無条件であるとは、神が人を愛するのに条件をつけないことです。
神の愛が無制限でないとは、人が神の愛を無視して好き勝手に罪を犯し放題であるとき、神はそれを見過ごしにされないということです。

これは当たり前のことですが、神があまりに偉大であるのと、人があまりにちっぽけで罪深いので、神の愛が無制限でなければならないとする誤解が生まれることになります。

        

②本当の愛には無条件の愛と無制限ではない愛が含まれている

親子の関係を考えれば、愛は無制限でなければならないという教えが誤っていることがすぐに分かります。

親は子供がどんなに悪くなろうと変わらず愛します。(愛が無条件であること)
しかし子供が社会的な問題や犯罪を犯したとき、本当に子供のことを考えている親なら、その問題から逃げることや自己正当化を勧めるのではなく、かえって問題に正面から取り組むことを強く勧めるでしょう。
これは親が子供を愛しているということの本質的部分です。(愛が無制限ではないこと)

しかし犯罪を犯した自分の子供に自首を勧める親が「お前は罪を犯したから、もう私の子供ではない」と言うでしょうか?
もし言ったとしたら、その親の愛は無条件ではなかったということになります。
一時期烈火のごとく怒ったとしても時が過ぎればやはりかわいい我が子であることに変わりがないことを思い、刑務所から出てくるのをひたすら待つのが人の子の親というものではないでしょうか。(愛が無条件であること)

罪深い人間の親であってもそうであるなら、神ならどれほどの深い愛と厳しい愛をもっておられることでしょうか。
無条件であるということと無制限ではないということの両面が、愛のなかには元々含まれているのです。

        

③人間が神になろうとしている

信仰とは自分を神におゆだねすることです。
しかしこの主義を説く人たちは、神がお決めになることを自分がしゃしゃり出て決めてしまっています。
人間が結論を出すことを許されていない領域に手を伸ばすことはサタン的罪です。
天使長のルシファーが神になろうとして、かえって底なき穴に投げ落とされる運命になったのと同じです。
人間としての分(ぶん)を弁(わきま)えなければなりません。

気をつけないといけないことは万人救済主義に反対する人たちが、聖書に書かれているところを超えて議論に応戦しているときがあることです。
これはサタンの思うつぼです。
聖書はイエスを信じた人は救われ、イエスを否認した者は滅びると言っておりますが、それ以外のケースについては沈黙しています。
もし聖書を神の言葉と信じるなら、書かれていないことを言ってはいけないし、また書かれていることを超えて意見を主張してもなりません。

        

④神に対する不信がある

信仰とは神を信頼することです。
そもそも神を信頼できないのなら、神を信じることなどは不可能です。
本音では「神のやつ、本当に大丈夫かなぁ?」とつぶやいているのに、それを自分でも気づかずに抑圧している場合、その抑圧が様々な面で形を変えて吹き出してくるものです。

万人救済主義を主張する人々の心理的側面にはこのような問題が潜んでいるのではないでしょうか?
もしそうであるなら格好をつけることを止め、正直な自分になって「神よ、私はあなたを信じきれないのです。どうか信じれるように助けてください」と祈ることです。
そうしたら、神は祈りに答えて全き信頼をお与えくださいます。

        

⑤心からのお願いとお勧め

ありのパパは万人救済主義を主張している一人の牧師を知っています。
今日の文章はこの方に向けて書かれたものでもあります。
この方がどんなにご苦労されたかも知っております。
そしてこの方が神の御前でも人の前でも、どんなに誠実であったかを疑うことは出来ません。
しかし万人救済主義を主張するに至りました。
「あなたは(福音の競争を)良く走っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのか?」と神が言っておられないでしょうか?
もう一度、良く祈って、聖書を虚心に読み、一部分・数カ所からではなく、聖書全体は何と言っているかを探っていただきたいのです。

◎平安と祝福を祈っています。

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