みなさんはネストリウスという名前をお聞きになったことがおありですか?
初代教会から始まったキリスト教会が次第に堕落し、ついに宣教地にあった女神信仰に妥協してマリアを神の母として崇めるようになりました。
このことを痛烈に批判したのがコンスタンチノープルの司教であったネストリウスでした。
論争は熾烈を極め、様々な政治的な思惑が絡み、混乱の度を深めていきました。
この混乱を解決するため、教会は公会議を招集しました。
結果はネストリウスに異端宣告をなし、教会から破門するというものでした。
今日の主題はこの部分にありませんので詳しく書くことは控えますが、このことは教会であっても底無しに堕落する危険があることを教えています。
この教会会議において異端宣告され司教の座を追われたのが431年のことでした。
1.ネストリウス派に対する弾圧と景教
ネストリウス派に対する弾圧はすさまじく、自分の出身地に戻るなら即死刑という命令が出され、この信仰を持つ人々は自分の故郷に帰ることが出来なくなりました。
それもあってかネストリウス派は東へ東へと宣教の歩を進めていきます。
ペルシャに、インドに、そして中国へと教線は拡大していきました。
中国・大秦寺境内に景教碑が建碑されたのが781年と言われています。
そしてその碑には景教(中国におけるネストリウス派キリスト教の呼び名)が中国に到達してからの147年間の歴史が記されております。
ということは異端宣告されてから204年後の635年には中国に到達していたことになります。
ネストリウス派の宣教師たちはシルクロードを通って宣教活動を行いました。
景教碑には中国で活動した60名あまりの宣教師の名前が記されています。
ネストリウス派のはじめての宣教師が中国に入国したとき大歓迎を受けたとありますから、すでに大勢の景教徒が中国に存在していたと思われます。
この中国在住の景教徒はシルクロードを通ってやってきた商人たちの一団ではないかと思われます。
真言宗の開祖である空海は景教にも理解が深かった仏教僧から学んだと言われています。
その証拠に高野山には景教碑のレプリカが建碑されています。
(ここからは空想ファンタジーとなります。)
2.聖徳太子と渡来人(とらいじん)
日本で最初の大学を設立し、また有名な「群書類従」を編纂した江戸後期の国学者・塙保己一(はなわほきのいち)という人がおります。
聖徳太子が制定した憲法十七条には「(さんぽう)をうやまい」とあり、この部分は長く[仏・法・僧]の三宝であると言われてきました。
塙保己一は盲人であったが故にすべての書物を誰かに音読してもらって理解していたのですが、彼はその音読ゆえに前後の文章の流れから言って、この「さんぽう」は「三宝」ではあり得ず、「三方」ではないかと言ったのです。
塙が言う三方とは、仏教・神道・儒教を指します。
しかしこれはよくよく考えると、おかしい気がします。
なぜなら日本で儒教が広まったのは江戸時代であり、それより11世紀も以前の聖徳太子の頃に儒教が尊重されるべき三方の中に入っていたと考えるのは無理があります。
憲法十七条が制定されたのは604年です。
私がなにを言いたいか、もうお分かりですね(笑)。
この当時朝鮮半島から渡来人と言われる人々が多くやってきましたが、この中に景教徒がいたとしても何ら不思議はありません。
時代的にはぴったり合います。
シルクロードを通ってやってきた商人なら財力はあったでしょうし、政治力にも長(た)けていたのではないでしょうか。
しかし彼らは都を避けて、辺鄙(へんぴ)なところで息をひそめるように静かに暮らしました。
聖徳太子は景教徒か、さもなくば景教徒の保護者ではなかったかと、ありのパパは推測しています。
この前提で論を進めますと、三方とは神道・仏教・景教を指していたということになります。
ありのパパは以前から日本の歴史を学ぶときに、軍国主義日本に代表される強面(こわもて)の側面と、源氏物語に代表される虚無(きょむ)的な頽廃(たいはい)主義の側面以外に、人を大切にする、まるで神さまのような眼差しをもって人々を見つめる側面があるように感じてきました。
そんなとき盲目の国学者である塙保己一が、自身が盲目であるが故に見抜き、周囲の反対にあっても断固として主張を変えなかった「さんぽう」についての理解を知ったとき、それまで断片的だった知識が一つにつながりました。
3.「立ち返り」という言葉
我が国におけるキリスト教の歴史には立ち返るべき「歴史」が存在しないと言われてきました。
それゆえにリバイバルも期待できないと言うのです。
なぜならリバイバルとは復興のことであり、復興とはかつてあったものが再びよみがえることだからです。
だから日本の宣教は困難であると結論づけられてきたのです。
しかしこの空想ファンタジー・コラムをお読みいただいて、何か希望が出てきたのではないでしょうか。
この聖徳太子の景況の時代をキリスト教の第一の挑戦と見ることは可能です。
そしてキリシタンの時代をキリスト教の第二の挑戦とすれば、現代はキリスト教の第三の挑戦の時代ということになります。
一度ならず、二度もあったことは、必ず何度でも再現可能です。
◎平安と祝福を祈っています。
ありのパパは日本人とユダヤ人が同じ祖先であるとする「日ユ同祖論」に賛成するものではありません。
またネストリウス派の神学が正統であると認めているわけでもありません。
ありのパパさん、おはようございます。
今朝のブログ、大変に興味深く読ませていただきました。
聖徳太子の時代、すでにシルクロードを通ってネストリウス派のキリスト教が日本に伝わってきたということは十分に考えれますね。
パパさんの文章を読んで、興味がわいたので、ネットで色々と調べてみたところ、いくつかの面白い事実を教えられました。
①日本に景教を伝えたのは、大陸からの渡来人である秦一族であったという説が有力であること。
②秦氏で最も有名な人物が秦河勝であり、彼は聖徳太子に仕え、太秦に広隆寺を創建したことで知られること。
③広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像の指の形は、中国の景教の絵に残されている祈りの時の指の形と同じであること。
④その弥勒菩薩半跏思惟像は、聖徳太子が秦氏に贈ったものであること。
⑤聖徳太子はその出生の伝説から厩戸皇子と呼ばれ、それは家畜小屋で生まれた主イエス誕生の物語と類似性があること。
そんなことから、聖徳太子は隠れキリシタンだったということを主張する本も出ていて(多少トンデモ本っぽいですが)、また、歴史学者の梅原猛も『隠された十字架』という本のなかで、聖徳太子とキリスト教の関係を論じているようです。(本は持っているのですが、まだ読んだことはないので、今度読みたいと思います)
そう考えると、日本とキリスト教の関係は意外に大昔からあったのですね。
カリスマ運動の手束先生は、ネストリウス派は古代のカリスマ運動だ、という視点で研究しているようですが、それとは別に、ネストリウス派は最近ではリベラル派の中で、単なる古代の異端としてではなく、その持つ神学的な意義を再評価する動きがあるという話を聞いたことがあります。そのためでしょうか、リベラル派の出版社からネストリウス派に関する本が何冊か出ています。
ちなみに、聖徳太子は「大工の神様」「大工の守護神」として信仰されているのだそうです。
馬小屋で生まれたとか、大工の神様とか、福音書の物語を知っていたのかも知れませんね。
ヒラぴゃんさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
土台を据えることが一番苦しい仕事ですが、あとの人はたやすくその基礎と土台の上に建物を建てることが出来るにもかかわらず、もし基礎と土台がすでにあることを知らないで、またもや同じ仕事をしていたとしたら、こんなに非効率なことはないと思い、文章にしてみました。
明日は万人救済主義についてです。
リベラル派キリスト教の立場からのコメントをいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。
ありのパパさん、こんばんは。
そうですね。実は、日本には1400年以上も前にキリスト教の土台が据えられていたのかも知れません。何か不思議な気持です。
明日の万人救済主義のコメント楽しみにしています。
この点については、私とパパさんは真っ向から対立するかも知れません。
というか、多分対立するでしょう(笑)
どうぞお手柔らかにお願いします。
ありのパパさんへ
こんばんはー。昨日ちょっと家のことを頑張ったので、現実逃避中です(焼鳥屋)
ありのパパさんブログで「景教」が出て来るとは、正直驚きです(笑)
教典の「世尊布施論」では、山上の垂訓や5000人の給食の話が出て来るそうですね。
ブログのこの流れで、明日からの「万人救済論」、猛烈に楽しみです!(何回読んでるんだ!?←自分ツッコミ)
こんばんは、マッキーさん。
コメントをありがとうございます。
なんか最近、焼き鳥屋さんからのコメントが続いているような気が(笑)。
またコメントしてください。お待ちしています。