嗜癖スイッチを見つけ出し、止める。自分自身を手当することを学ぶ!

「私はしたいと思わないにもかかわらずスイッチが入ってしまう」という方はおられませんか?
この記事では嗜癖スイッチとか引き金という存在があるのを明らかにし、真に回復するにはどうしたらよいのかを解説しています。

        

1.嗜癖に陥る引き金を特定し、それらをできるだけ遠くに引き離す

嗜癖スイッチ・引き金

依存症には嗜癖に至らせる「引き金」とでも言うべきものがあります。

ありのパパが尊敬するあるアルコール依存症の方は定期的に利用するコンビニに酒が置いてあったそうです。
自分でも「いつかその酒に手を伸ばしてしまうのではないか?」と心のどこかでは危惧しつつ、生活のパターンを変えることをせずにいました。
そうしたところついにそのコンビニの酒に手を伸ばすときがやってきました。
あっという間に精神科病棟のベットに横たわる身となった時、「もし神がもう一度チャンスを私に与えてくださるなら、決してあのコンビニに近寄ることをしない」と決心されたそうです。

私たちの頭の中の報酬系と呼ばれる部位には依存症回路があり、そこから発せられる強迫観念と渇望現象に対して私たちは無力です。
強迫観念とは引き金を引かせるウソを教える力ということができます。
そしていったん引き金が引かれると続いて渇望現象が襲ってきて肉体的・精神的・時間的・経済的限界をむかえるまで嗜癖行為を止めることができません。

あるギャンブル依存症者はパチンコ屋に入って打ち始めると営業終了を知らせる音楽が流れるまで止めることができなかったそうです。
泣きながら「神様、パチンコを止めさせてください」と祈りますが、効果はなかったそうです。

神であっても何とかできるのは強迫観念だけであり、いったんスイッチを入れてしまったら、もう誰も止めることはできません。

ですからスイッチを入れないことが生命的に重要です。
ここで注意すべきことがあります。
多くの仲間がスイッチが「入ってしまう」と言いますが、実はそうではありません。
スイッチが「入ってしまう」のではなく、自分でスイッチを入れているのです。
ここに気がつくまでは被害者のままです。

しかし自分でスイッチを入れているのに気づけば、回復させてくださる神の力に繋がることができます。

アルコールとギャンブルの例を出しましたが、では怒り依存症はどうでしょうか?
ありのパパは怒り依存症なので、自分の例をご紹介します。
怒りが爆発するのは新幹線や高速バスの前に座っている人が断りなしにシートを倒したときと、車内で電話をしたり、大きな声で話をしているときです。

それで車内の一番前のシートに座るようにしています。
そうすれば決して前のシートが倒されることはありませんから。
また後者の対策にはノイズキャンセルヘッドホンを使っています。
そもそも声が聞こえなければ怒りが引き出されることはありません。

みなさんも「私の嗜癖スイッチは何だろうか?」と考えてみてください。
必ず三つや四つの『引き金』(⇐嗜癖スイッチ)を特定できるでしょう。

        

2.嗜癖に耽(ふけ)って回避することと、自分自身の手当をすることの違いを学ぶ

自分の中の赤ちゃんを世話する

性依存症者の自助グループのテキストであるホワイトブックには「嗜癖に耽って回避することと、自分自身の手当をすることの違いを学ぶ」(34頁下から6行目)とあります。

私たちは自分自身を手当するとはどういうことかを知りませんでした。
知らないとは、自分の本能が傷ついたときや、感情が暴走したときにどのように対処すればよいかを知らないということです。

それで本能が傷ついても抑圧し、感情が暴走しても否認をして気が付かないふりをしました。
これは多くの場合に無意識下で行われていることなので、自分が抑圧・否認していることに気づいてないこともあります。
私たちは二重の意味で否認しているということができます。

これは感情が暴走して不快感情が溜まりに溜まってしまう状態ですから、この状況では嗜癖に耽ることによって不快感情から逃れようとするのはある意味では当然のことです。

ありのパパはかつては「なぜ自分ではやりたくないと思っていることをやってしまうのだろうか?」と訝(いぶか)しんでいましたが、今はその理由がはっきりと分かります。
「これじゃ、嗜癖に耽って現実から回避するしかないよね」という感じです。

        

3.全人格的に回復に取り組む

椅子を巡るトラブル

「全人格的に回復に取り組まねばならい」(同34頁3行目)とは自分自身を手当するとはどういうことかを学ぶことです。

自分自身を手当するとは本能が傷ついたのは他者のせいではなく、自分の性格上の欠点からくる行動パターンが真犯人だったと気づき、新しい行動パターンを全力で実践することです。

たとえばミーティングで誰かが話をしている時に、席が足らなくなり会場係が椅子を増設した際にノイズが出て、話が聞こえづらくなったとします。
それで話をしていた人は機嫌をそこねてしまい話すのを止めてしまいます。

会場係は謝るのですが、その人はゆるしてくれません。
ゆるしてくれないので、その人に対して恨みの感情を持ちました。

これは解決可能でしょうか?
それとも仕方のないこととして我慢すべきでしょうか?

解決のための一例をご紹介します。

会場係の方は「私が謝ったら、あなたは赦すべきである」という思い込みを持っていないでしょうか?
もし持っていたとしたら「利己的」ということになります。
なぜなら、ゆるすかどうかは相手の自由だからです。
もしこれに納得できないなら、その方は病的なコントロール欲求の持ち主ということになります。
良かったですね。ありのパパの仲間ということになります(笑)。

動機が利己的だと「配慮の欠如」が必ずそれに続きます。
配慮の欠如があると相手はゆるそうとしても人間的弱さによってゆるすことができなくなってしまいます。
要するに相手にゆるさせないようにしているのです。

これが本当に分かると「なぁ〜んだ。原因は私にあったのか!」ということで自分を笑うことができるようになります。

全人格的に回復に取り組むとは自分自身の手当の仕方を身に付けることです。
身に付けるとは借り物の服のようなぎこちなさが漂うものではなく、ちゃんと着こなしているということです。

もちろんこれは一生モノです。
どこまで行っても「これはムリ!」という難物に遭遇することはあります。
でもそのような時でも座り直して日々の棚卸しをすると、必ず解決が見つかります。
「今回に限ってはあいつが悪い!私は全然悪くない。そうに決まっている!プンプン」と思えるときでも、どうぞ日々の棚卸しをなさってください。
そうしたら解決はあなたの足元にすでに置かれていることに気づくでしょう。

◎回復と平安と祝福を祈っています。

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