【悲報】私たちは自分の無力を徹底して認めることができない!

12ステップの最初の入口には「無力を認める」があります。
これをどのように取り扱うかは知恵がいります。
この記事では無力を徹底して認めるのはできないことであると明らかにし、無力は用いるべきものであるのを具体的に解説しています。

        

【悲報】私たちは自分の無力を徹底して認めることができない

「ステップの実践」という本には「私たちにとっての最大の障害は渇望に対する無力を完全に理解し、受け入れ、認めることが不可能だという事実だ」と書かれてあります。
要するに私たちが回復するためにはどうしても自分の無力を徹底して認める必要があるのですが、なんとその肝心要(かんじんかなめ)の無力を完全には認めることができないというのです。

これが悲報でなくてなんでしょうか。
しかしこれを読んで「なるほどな!」と腑に落ちたこともありました。
それは多くの人が「他のステップは完全に実践することはできないが、ステップ1の無力だけは完全に理解しなければならない」と言います。
中には「一年に1ステップずつやっていく」という人さえおられます。
そのような分かち合いを聞くたびにありのパパはお腹の中で「ステップの12にたどり着くまでに命がまだあればいいけどね!」と毒を吐くのです(笑)。

AAの共同創設者であり、12ステッププログラムの考案者であるビル・Wはステップの1から3までを一分でやったと言います。
飲んだくれのところに行き、「あなたは自分の人生がどうにもならなくなり、自分の力では何ともならないことを認めるか?」と尋ねます。
そうすると今現に飲んだくれているアルコール依存症者は「はい、認めます」と答えざるを得ません。
次にビルは「では自分を超えた大きな力があなたを回復させてくださると信じますか?」と質問します。
万策尽きたアルコール依存症者に「はい、信じます」以外のどんな答えがあるというのでしょうか。

ビルの三番目の質問は「回復するために行動のプログラムに取り組みますか?」です。
そうして「来週また来るから、その時までに棚卸し表を書いておくように」と言って、一回目の訪問が終わります。

ビル自身はこんなにも簡単にステップ1から3をやっているのに、なぜあとに続く人たちがステップ1から3に(ありのパパから見て)必要以上に力を入れるのか不思議でなりませんでした。

無力は理解するものであるとともに、実践すべきものです。
棚卸し作業をやるとき「私にはできない。しかし神には何でもできるからである」と信じてチャレンジします。
そうしたら棚卸し作業を先延ばしにする罠から逃れることができます。

古い行動パターンを使わず新しい行動パターンを使って生きていく決心と実践にも「私にはできない。しかし神にはどんなことでもできる」と信じて全力投球します。

埋め合わせ作業も同じです。
「こんなに私が謙遜に謝っているのに、その態度は何だ!」(ちっとも謙遜じゃないから!)と思ってしまうような時にも「私にはできない。しかし神にはどんなことでもできるからである」と思いを新たにして再び埋め合わせ作業に戻っていきます。

○無力を認めることが本質ではなく、行動のプログラムに取り組む実践の中で信仰を用いていくのが無力を認めることの本質です。

        

【朗報】共同体から受ける助けと支えによって無力を今日一日だけ認めることが可能!

徹底して無力を認めることは不可能だと分かりましたが、中途半端なままでいいのでしょうか?
いいえ、「中途半端なままではどこにもたどり着くことができない」と多くの12ステップ本には書かれてあります。

ではどうしたらいいのでしょうか?
そうです。共同体から助けと支えを受ければよいのです。
共同体から受ける助けと支えとは、ミーティングに参加して仲間の話を聴き、自分の話をする中で受け取るものです。

スリップした仲間の話を聴くと「私と同じだ。あの人は私に無力を忘れさせないために私の代わりにスリップしてくれたのだ。私も無力である」と自分の無力を今日一日だけ認めることができます。

うまく行っている仲間の話を聴くと「私もあの人と同じように回復したい。自分を超えた大きな力が私を回復させてくださることを信じ、行動のプログラムにより一層取り組むぞ!」と神への信頼を新たにし、自分自身の回復に対して強い意欲を持つようになります。

○共同体から受ける助けと支えには即効性がありますが、効果は時間の経過とともに薄らいでいきます。
これに対して霊的目覚めは即効性はありませんが、効果が永続的です。
それで共同体から受ける助けと支え、霊的目覚めが二つの解決策であると言われています。

        

【認めるべき無力は二つ】渇望に対する無力と人生がどうにもならなくなったことへの無力

アダルトチルドレンで自分の人生が行き詰まっているのを否認する人は少ないでしょう。
なぜならそのような人はミーティングにやってこないからです。
しかし自分のもっている嗜癖に対しては無力を認めていない方が多いように見えます。
なんとかいうか「隠れた万能感」とでもいうようなものを感じるのです。

物質依存や行為依存の方々はACとは逆で、渇望に対する無力を認めていない人は稀(まれ)です。
しっかりと「私は渇望に対して無力である」と認めておられます。
では人生がどうにもならなくなったと認めているかと言うと、これはまた話が別でなんというか「今に見てろよ!」的な人生に対するリベンジ的なものを感じるときもあります。

もちろんこれはありのパパの個人的な経験に過ぎず「全員がそうである」ということでは決してありません。

ありのパパはACですので(行為依存ももっていますが)人生がどうにもならなくなったことは明々白々の事実として受け入れています。
しかし渇望に対してはそうではありません。
以前は時々「ひょっとして俺は依存症じゃなかったのかも?(期待)」と考えるようなときがありました。(今はなくなりました)

それに対して「ACの問題」を嗜癖として使っているのを認めることは今でも難しいです。
「我力(がりき)でコントロール可能だよ!」と高(たか)を括(くく)っているフシがあるのです。
それで毎朝、祈りと黙想の時間に自分で考案した「12ステップの祈り」をしています。
これを祈ると強迫観念と渇望現象の出処である依存症回路が脳の報酬系にできると理性が無力化されてしまうこと、そして依存症回路がいったんできてしまうと死ぬまで依存症回路が消えないことなどを再確認できます。
こうやって渇望に対して無力であることを朝ごとに日ごとに認めるようにしています。
このようにしてようやっと「今日一日だけ」無力を認めることができます。

◎回復と平安を祈っています。

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