12ステップの棚卸し作業に虐待経験を含めない根拠は何か?

なぜ虐待経験を棚卸しの対象から除外するのでしょうか?
その根拠を示します。

また、恨みの反対語は「ゆるす」ですが、「ゆるします」と言えば問題が解決するわけではありません。
かえってそのような行為は問題を悪化させてしまいます。
そうならないためにはどうしたら良いでしょうか?

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1.棚卸しの目的にそぐわない

棚卸し作業をやる目的は、自分の性格上の欠点と、そこから出てくる行動パターンを知ることにあります。

この視点から考えると、虐待経験は加害者に全責任があるのであり、被害者には責められるべき一点の非もありません。

ですから虐待経験は棚卸しの対象になりえません。

2.カウセリング的配慮から

傷口に塩をすり込むような真似をしないためです。

虐待経験を棚卸しの対象にしてしまうという誤りを、12ステップグループが犯した時代がありました。

これはセカンド・レイプに当たります。

このようなことにならないように、予め棚卸しの対象から虐待経験を外すという配慮がされています。

3.ゆるす必要はない

旧い時代のカウンセリングですと「ゆるす」ということを過大に評価します。
これの理由は宗教的(特にキリスト教)な理由から来ているようです。

しかし現代の心理学もカウンセリングもそうではありません。
その理由をご説明します。

①意図的なゆるす行為の問題点

いったん「ゆるします」と言ってしまえば、その人は問題を追求することができなくなります。
なぜなら、ゆるしたことを蒸し返すことになるからであり、論理的にも矛盾した行為だからです。

しかし許してはならない時点でゆるしてしまったことが、そもそも非論理的な行為だったのです。

ゆるしとは意図的なものではなく、「ゆるしたほうが自分にとってスッキリする」「もうそんなことはどうでも良いことになった」状態になってから行う行為です。

夫婦げんかで「お前は同じことを何度も蒸し返す」というご主人がおられます。
しかし、それは奥様が「あなたをゆるします」と言ったとしても、それは心からゆるしているのではなく、「ゆるします」と言わされているからにほかなりません。

②ゆるしても問題は解決しない

昔のカウンセリングですと、ゆるすことによる心の平安を過大評価しました。
ありのパパは、そのように言う人々を何人も観察してきましたが、一人として真の平安を持っているように感じた方はおりませんでした。

皆が皆、心に蓋をして「ゆるしたことにする」心の状態であるようでした。
この心の状態を長期間維持すると、心と肉体の両面に重大な疾病をもたらす危険があります。
ですから、このようなことをしてはなりません。

③ありのパパの個人的体験

では、全然ゆるさなくてよいのかと言うと、そんなことはありません。
ゆるすべき段階に到達したら、ゆるしたら良いのです。

ありのパパも棚卸し作業の最中に「ゆるせない人をゆるす三週間の祈り」 をいたしました。
これは大抵の12ステッププログラムの書籍に書かれてあることです。
ビッグブックにも、プログラム・フォー・ユーにも書かれてあります。

「ゆるせない人をゆるす三週間の祈り」とは、 棚卸表を書くことによって、恨みを持っている95%の人々をゆるすことができる。
残りの5%は自分が与えられたいと思っているものを相手にも与えられるように三週間祈るというものです。

ありのパパはこれを母親に対して実行しました。
与えられたいと願ったものは「心の平安」でしたので、母にも心の平安が与えられるように祈りました。
その結果、何が起きたかというと素晴らしいことが起きました。

それはありのパパの母親は悪く言えば俗っぽい人であり、「心の平安って何?それ、おいしいの?」と言うような人でした。
長い間、そのような人に向かって実現不能なお門違いな願いをし続けていたのだということに気づくことができました。

その結果、恨んでいることがバカバカしくなりました。
どうでも良くなった結果として、母親は「どっかのおばちゃん」になりました(笑)。

毒親がどっかのおっちゃん・おばちゃんになることが真の親替(おやが)えです。

◎回復と平安を祈っています。

コメント

  1. ひばり より:

    ありのぱぱ様
    いつも本当に有難う御座います。

    説教をする時に「許しましょう」とメッセージすることは(説教を聞く)人の心を苦しめるということでしょうか?

    主の臨在にとどまること、主に愛されていると信仰を持つ時に許すことができるという経験はすごく理解できます。

    そういった意味では、心を開放するために、許すということはすごく大切だと思います。
    どう思われますか?

    しかし、許しを強要された時に許すのが難しい経験もあります。

    ありのぱぱ様がもしもメッセンジャーで呼ばれたりしたら、「許す」というテーマについてどういったメッセージをしますか?

    もしくは、以下のような聖書箇所を話すとしたら、どういった言葉を添えて伝えるのがいいと思いますか?
    神の赦しに限界がないように、私たちの赦しにも限界があるべきではないのです。(ルカ17章3,4節)

    いつもありがとうございます

    いつまでも平安がありますように
    ひばり

    • ありのパパ より:

      こんにちは、ひばりさん。
      コメントをありがとうございます。

      「どうお思われますか?」というご質問ですが、その前にお聞きしたいのは「ひばりさんはどう思われますか?」ということです。
      そして、これだけが重要です。
      他者が「どう思っているか?」などは何の役にも立ちません。
      どうぞ、まずひばりさんが「私はこう考える」というところをコメント欄に書き込んでくださるようにお願いいたします。

  2. ひばり より:

    ありのぱぱ様
    返信ありがとうございます。

    私は恵みの中にとどまることが「許し」を成長させることだと思います。
    イエス・キリストが自分の中に生きていること、自分がどれほど愛されているか、それを信仰を持って見つめていくことがとても大切だと思います。

    私でしたら、ちゃんとした方向性として「許す」こと「愛する」ことを示した後で、それができないありのままの自分を神様に受け入れてもらう祈りが私達の信仰を成長させていくという話をすると思います。

    逆に、わたしが違うと思うのは、同じ罪人だから許し合おうというメッセージは逆に私達を傷つけるだけだと思います。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、ひばりさん。
      コメントをありがとうございます。
      そして、早速ご自分の考えを述べてくださり、感謝をいたします。

      そうですね。私も方向性は同じです。
      ただ、アプローチの順番がちがいます。
      たとえば、ひばりさんはまずゆるすべきことを話してから、許せなくても構わないというアプローチです。
      これだと人の心は閉ざされてしまうでしょう。
      なぜなら、福音が先に来ずに、律法が先に来ているからです。
      「ゆるすべき」とは律法であり、「許せなくても構わない」とは私たちが救われるための全条件を神が果たしてくださったから、どんな人であっても(たとえゆるすことができない人であっても)信じさえするなら救われることができるという福音です。

      最初に福音が来て、そして機が熟したら成長に向けて帆をあげるというのが、聖書的にも心理学的にも健全な教えではないだろうかと考えます。

      どちらにいたしましても、大切なことはひばりさんが今持っておられる信仰や神学を土台として進まれるということです。
      祝福を祈っています。

      (おことわり)

      このブログを読まれているであろう多くの未信者の方が違和感を持たれるかも知れない、あるいは本筋に関係がとぼしいと、ありのパパが感じた部分を削除させていただきました。
      ご了承ください。

      • ひばり より:

        ありのぱぱ様
        ありがとうございます。

        本当に感謝です。
        確かに私は福音で救われて、その後に律法を追いかける喜び、主が生きてほしい私を追いかけることを学んだように思えます。

        「福音が先」というのを考えてメッセージを考えていきたいと思います。

        とても勉強になりました!!

        ありのぱぱ様に今日も豊かな祝福がありますように
        ひばり

        • ありのパパ より:

          こんにちは、ひばりさん。
          コメントをありがとうございます。

          またコメントしてください。お待ちしています。