アダルトチルドレンの12ステップで行う回復のための統合作業(1〜14)

ACにとって最も大切な作業が統合作業です。
12ステッププログラムに何年も取り組んでいながら、統合作業は手付かずであるなら悔やんでも悔やみ切れないということになります。

(ACの自助グループごとに「問題」とか「ランドリーリスト」と呼ばれていますが、当ブログでは「問題リスト」という呼び方をします)

(問題リストの特定部分だけを読みたい場合は『目次』をクリックするとジャンプできます。問題リストだけを見たい場合はアダルトチルドレンの問題リストをクリックしてください)

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0.統合作業に取り掛かる前に注意すべきこと

「人が恐い」という感情があるのに気づくことが先決

問題リストをはじめて読んだ時のありのパパの感想は「いや、怖くないし」というものでした。
しかし、それでは自分がACでないことになってしまうので、仕方なく「あることにしておこう」と考えたのでした。

今から考えると、感情を否認・抑圧・合理化していたので、そもそも自分の感情に気づくこと自体が不可能でした。

ACが回復しようとするなら、どうしても自分の中にある「人が怖い」という感情に気づく必要があります。
なぜなら、それが無力の対象になるからです。
無力の対象を定めることができなければ、12ステッププログラムの効果が現れることはありません。

アダルトチルドレンにとっての回復とは何か?

依存症には回復の雛形(ひながた)とでもいうべきものがあります。
それは問題行動を一切やめてしまうことです。
アルコール依存症なら酒を一生飲まないことを決心します。
薬物依存症も、ギャンブル依存症も同じです。

擬似アルコール依存症であるACにとっての止めるべき行為とは「恐れから出てくる一切の行動」ということになります。

霊的目覚めと統合作業の関係

問題が分かったら、解決は簡単です。
なぜなら二つの解決策が用意されているからです。
二つの解決策とは、霊的目覚めと12ステップ共同体からの支えと助けです。

霊的目覚めとは回復するのに充分な人格の変化のことです。
では人格の変化とは何かと言えば、それは今までは「自分がこうなったのはあの人のせいだ」と思っていたのが、「そうではない。自分がこうなったのは自分のうちにある性格上の欠点が原因だった」と物の見方が180度変わってしまうことです。

この変化は12ステッププログラムに徹底して取り組むなら、誰にでも与えられると約束されたものです。

この二つの解決策を自分のものにした後に、統合作業を行います。
霊的に目覚める前に統合作業をやっても徒労に終わる可能性が高いです。

どのようにして統合作業を実践するか?

チェックシートを用いて、一日の終わりに検討します。
また、感情が動いたり、あるいは逆に感情がなくなったように感じられる時、日々の棚卸しと共に統合作業を行うのも良いことです。

思考習慣の変化と定着には六ヶ月掛かると言われています。
少なくとも初めの一ヶ月はチェックするだけでなく、気づいたことをノートに書き込むようにします。
「出尽くした感」があれば、次の統合作業に移っても構いませんが、チェックだけは半年間続けて行います。

このやり方ですと、1年半ですべての統合作業をやり終えることができます。
そしてこれを繰り返すことも有益です。

問題リスト1

「私たちは人が恐いので、まわりから孤立するようになった」

孤立するのはアダルトチルドレンが原因とは限らない

孤立が嗜癖から来ている場合

アルコールや薬物などの物質依存、競馬・パチンコやスマホゲームなどのギャンブル依存にハマれば、どうしても周囲から孤立するようになります。
この場合、周囲から孤立したのとACは関係がありません。

ここで言っているのは「人が恐いという感情」が原因で周囲から孤立したということです。
自分がやってきたことを棚に上げて「そうそう、俺も孤立した。何だ、アダルトチルドレンが原因だったのね」などと寝言を言ってはなりません(笑)。

孤立が内向型の性質から来ている場合

内向型の性質の持ち主も周囲から孤立しがちです。
この場合は、内向型特有の「孤独を愛する」傾向から来ているケースもあります。

ですので「自分は孤立しているかも知れないが、果たしてそれを苦痛に感じているか?」と自分自身に問わなければなりません。

子供時代には孤立を苦痛に感じることがほとんどですが、成人すると孤立を心地よく感じるようになります。

発達障害やパーソナリティー障害から来ている場合

この場合はアダルトチルドレンのケースと一見見分けがつきません。
しかしアダルトチルドレンの場合には恐れが原因で周りから孤立するのですが、これらのケースでは孤立した結果として自分の内に人への恐れをもつようになったという全く異なる理由があります。

統合作業のやり方

「人を恐れることが動機となって孤立しなかったか?」

普段の生活では否認したり、抑圧したり、合理化したりしていますから、自分の動機というものは案外わからないものです。
しかし「神さま、どうか隠された私の動機を気づかせてください」と祈りながら行うとき、神があなたの動機を見せてくださいます。

問題リスト2

「私たちは自分が何者か分からないので、他からの承認を病的なほどに求める」

私たちアダルトチルドレンは自分が何者か分からないので、他からの承認を異常に求めます。
そしてその過程で自分が何者かますます分からなくなるという悪循環を経験しがちです。

しかし私たちが知っておかなければならないのは、承認を追い求めたから自分が何者かわからなくなったのではないということです。
もともと私たちは「自分が何者か?」が分からなかったのです。

これは誰かにひどいことをされたから恐れたのではなく、もともと恐れの感情が自分のうちにあり、それが誰かの行動に誘発されて、もともと自分のうちにある恐れが引き出されたのに過ぎないのと同じです。

ここを見誤ると、自分の問題を他人のせいにしてしまうという誤りに陥ってしまいます。
そして自分の問題から回復しないままということになります。

統合作業のやり方

チェックシートを用いて一日の自分の行動を振り返ります。
内容は「病的な承認欲求から出た行動はなかったか?」です。

祈りと黙想を通して「神さま、どうか私の今日一日分の行動の中に病的な承認欲求から出た行動はなかったかどうかを気づかせてください」と祈ります。

たとえ他人の目からは正しい行動と映るものであっても、真実はそうではないことが多くあります。
ときには何年も経ってから、ふと「あの時の私の行動は病的な承認欲求から出ていたものだった」と気づくときもあります。

統合作業を続ける半年間のうち、少なくとも一ヶ月は毎日ノートに自分の思いを書くようにします。
出来るなら「もうこれで充分。次に行こう」との頷(うなず)きの声が聞こえるまでやり続けるのが良いのです。

問題リスト3

「(私たちは人が恐いので)人が怒っていたり、それが何であったとしても批判・噂話・陰口を聞くと怯える」

ありのパパは人の噂話をする人に嫌悪感を感じます。
このことを「自分は正義感が強いから」と天才的な錯覚をしていました。
実はそうではなく、人の噂話をしている人を恐れているのだということに最近になってようやく気づきました。

統合作業のやり方

「今日一日の中で、私は誰かが怒っているのに対して怯(おび)えたか?」
「他人がしている噂話や陰口や非難に感情的に反応することはなかったか?」

上記をチェックシートを用いてチェックしていきます。
そして最低でも一ヶ月は感想を書きます。

問題リスト4

「自分は人が恐いという事実に直面しないために、私たちは自分自身が依存症になったり、依存症者と結婚したりする。また、さまざまな強迫的な問題を抱えた人をわざと見つけて、病的な見捨てられ欲求を満たそうとする」

このリストをはじめて読んだ時「このリストを書いた人はなんと意地の悪い人なのか」と思ったものです。
しかし今では「その通りだね!」と感じています(笑)。

「人が恐い」という性格上の欠点を見ないですむなら、何でもやってのけるのが私たちアダルトチルドレンです。
もちろん、これは無意識にやっていることです。
分かっていたら、こんなことはしません。

自分の中に「人が恐い」という感情があるのに気づくのは、棚卸表をもう一人の人に見てもらうことによってです。
ありのパパはそれ以外の方法を知りません。

共依存のこと

この問題リストが教えていることは「私たちは共依存的行動によって自分の問題を見ないですむようにした」ということです。
共依存にはさまざまな現れ方があります。
ありのパパも共依存症なのですが、ありのパパの現れ方は「あなたはこの場面で当然こう動きべきであり、こう発言すべきである」という他者への病的なコントロール欲求です。

そのように動いてくれないと内心不機嫌になります。
そして、その人との関係を切ろうとします。
こうやって自分の人生が思い通りに行かなくなったことを認めざるを得なくなったのでした。

ある人は他者が願っていることを先取りして行います。
そのとき自分の願いは棚上げされています。
もしこのようなことを長期間に渡って行っているとしたら、それはまぎれもなく共依存症です。

他者を自分の思い通りに動かそうとするのと、他者の思うままに自分が動こうとするのは、一見正反対のように見えます。
しかし、これはどちらも共依存症であることに変わりはないのです。

これは健康な心の持ち主はどのような動きをするかを考えてみると明らかです。
心が健康な人は、そもそも他者を自分の思い通りに動かそうと思わないものですし、限度を超えて他者のために動こうとはしません。

共依存の人は自分の中にある「人はこうあるべき」という基準に振り回されて、結果として疲れ切ってしまいます。
「こんなことなら、この基準を手放したほうがどれだけ楽な生き方が出来るかわからない」と思うのですが、どうしても手放すことが出来ません。
その原因が分からずに自分でも訝(いぶか)しんでいるのですが、理由は簡単です。

それは共依存という問題に対して、私たちが無力だからです。
要するに私たちは共依存という依存症なのです。

統合作業のやり方

「私はわざと問題を持った人を見つけ出していないのだろうか?」
「これらの行動は『見捨てられ欲求』から出ている行動ではなかった?」と自らに問いかけます。

そして教えられたことをノートに書き込みます。

問題リスト5

「(私たちは人が恐いという自覚を持っているゆえに)自分の人生を被害者の視点で生きている」

そもそも「人が怖い」という感情は、自分が被害者でない限り持つことがない感情です。
なぜなら人が恐いというのは、人が自分を傷つけることへの恐れですから、これは自分を被害者の立場においていなければ起きようがない感情であるからです。

翻(ひるがえ)って実際の生活を見てみると、自分もまた他者を傷つけることが多かったというのが現実ではないでしょうか?
しかし被害者の視点で生きていると、自分のことで一杯になりますから(自己憐憫)、他者のことまで気持ちが及びません。
そうすると、これが原因となり他者への共感的理解・肯定的配慮の欠如という欠陥のある人間関係しか作れなくなります。

ですから豊かな人間関係を作り上げていこうとするなら、どうしても被害者の視点で生きることを止めなければなりません。
とは言っても、他の問題リストと同様に、被害者の視点で生きるという思考習慣のパターンに対して否認・抑圧・合理化していますので、これを変えるのは容易ではありません。

ありのパパには以下のようなことがあります。
それは気がつくと、心の中で自分が被害者になったストーリーの物語が進行しているのです。
(これは妄想傾向があるという言い方も出来ます)

これへの対処法は、妄想していることに気づいた時点で、はっと顔を上げ、「私は自分の人生を犠牲者の視点で生きることを拒否する」と宣言することです。

被害者の視点・犠牲者の視点で生きるほうが楽に決まっています。
しかし、これらの視点で生きていくと、人生は必ず行き詰まります。
行き詰まるのが嫌なら、被害者の視点で生きる生き方を放棄するほかはありません。

統合作業のやり方

「今日一日の出来事の中で、被害者意識が引き出されたことはなかったか?」
「今日一日の行動で、被害者意識を持って見つめている出来事はないか?」

このチェックを半年間行います。
そして少なくとも一ヶ月間はノートに感想を書き込むようにします。

問題リスト6

「私たちは自分の性格上の欠点を見ないために、自分の世話をしないで他人の世話をする。それは表面的には行き過ぎた責任感として現れる」

問題リストの6はまさしく共依存症者の行動を言い当てています。
私たちは「人が恐い」という自分の短所に直面する勇気がないために、他者の世話に逃げます。

なぜなら他人の世話に明け暮れていれば、自分の性格上の欠点を見ないですむからです。

しかし、このような生き方は遠からず行き詰まりを迎えます。
なぜなら、世話をしている自分も、そして大抵は世話をされている人も、どちらも病的だからです。

心が健康な人は、限度を超えた世話焼きを拒否するものです。
ただ心が病的な人だけが、病的な世話焼きを心地よく感じ、それを必要不可欠と思うのです。

なぜ他人の世話をするかと言えば、それは「世話をするから、私の思ったとおりの人間になってね。私が思ったとおりに動いてね」という病的な他者へのコントロール欲求が背後に潜んでいるからです。

しかし、自分の思ったような人を完璧に演じてくれる人は、この世に一人もいませんから、このような生き方は必ず失望に終わります。
その時でさえ、自分が失望したのは自分の誤った動機にあるのではなく、自分の期待に添えない相手にあると信じて疑わないのですから、これは悲劇を通り越して喜劇になっていると言わなければなりません。

さあ、他人の世話をすることをやめて、自分自身の世話をすることを始めようではありませんか!

統合作業のやり方

「今日一日の行動の中に、他人の世話を焼きすぎたことはなかったか?」
「今日一日の中で、行き過ぎた責任感を発揮してしまったことはなかったか?」

一日の終わりに、または気づいたときすぐに、自分の行動を省(かえり)みます。
「また、やっちゃった!(笑)」と思ったときは、「神さま、私の中にある『自分の世話をしないで他人の世話をする』回路のスイッチを入れないで生きていけるように助けてください」と祈ります。

問題リスト7

「私たちは『人が恐い』ので、他者の意向を考慮せずに自分の意見を述べると、偽りの罪悪感を感じる」

初めは威勢がいいのに、ちょっと論破されたりすると途端にヘナっとなってしまうことはないでしょうか?

心が健康な人は自分が正しいと思っていても自信満々には振る舞わないものですし、たとえ論破されたとしても「それがどうかしましたか?」的な対応をします。

アダルトチルドレンが自律的に自分の意見を言おうとすると、罪悪感を感じるのはひと言で言えば「自分はそのままでいい」と思っていないからです。
存在と行為が一体になっているのです。(分離しすぎていても別の不具合が生じます)

そのようなわけで、自分の意見が間違っているかも知れないと考えると、それが存在の価値にまで及びます。
それで罪悪感を感じるというわけです。

ありのままの自分でいいと思っていれば、自分の意見が間違っていようが、反論されようが、そんなことは自分の存在価値には影響しないことを知っていますから、罪悪感を感じないのです。

私たちアダルトチルドレンは「自分はこれでいい」というありのままの存在を受け入れられずに育ちました。
それで自分の存在に確信がないのを、親のせいにしているACも多いのですが、本当の原因は別のところにあります。

それは自分が自分自身のありのままを受け入れていないということです。

問題リスト7に書かれていることから回復しようとするなら、どうしても自分が自分自身のありのままを受け入れることが必要です。
これを自己受容と言います。

肉親には自分の心から出ていってもらい、自分が自分自身の愛ある親になるのです。(親替え)

統合作業のやり方

「私が私自身の親になり、自分を愛し、ありのままを受け入れ、常に自分自身を励まします」と毎日の祈りと黙想の時間に祈ります。

そして一日の終わりには「今日一日の中で、自分の意見をいうときに恐れたかどうか」を点検します。
恐れたときは自分自身に向かって「恐れがあるにもかかわらず、あなたはよくやった。私はあなたを誇りに思う」と言ってあげます。

これを半年間、意識的に行います。

問題リスト8

「私たちは刺激に嗜癖するようになった」

多くのアダルトチルドレンは依存症には罹患していません。
しかし、片っ端から刺激に嗜癖します(笑)。

何を隠そうありのパパも刺激に嗜癖している人の一人です。
テレビを見始めると何時間でも見てしまうために、何十年か前にテレビを捨ててしまいました。

最近ではネットフリックスやフールーなどのドラマや映画の見放題サービスが始まりましたが、これもだめでした。
内心では「ひょっとして治ってんじゃね?」みたいに思うところがあったのですが、深夜まで見続けてしまいました。
それで見放題・読み放題のたぐいのものは全部解約してしまいました。

効果が現れるのに時間がかかるものに嗜癖する人はいません。
短時間で、インスタントに効果が現れるものに嗜癖します。

たとえば数分間で結果が分かる競馬・競輪に嗜癖する人は多くおりますが、練習まで含めると膨大な時間がかかるマラソンに嗜癖する人はおりません。
これは効果が現れるのに時間がかかりすぎるために、嗜癖対象から外れるためです。

この「刺激に嗜癖する」ことからの回復はどのようなものでしょうか?

もちろんお一人お一人、回復の形は異なると思います。
ただ、刺激に嗜癖することから自由になるのは生きている間はないと、個人的には考えています。
アダルトチルドレンが出来ることは、刺激に嗜癖しないようにすることではなく、刺激を近づけない努力であると思っています。

統合作業のやり方

「これは嗜癖しているな」と思うものがあれば、嗜癖している刺激を手放すことが出来るように、神に祈ります。

また「神さま、自分でも気づかないうちに刺激に嗜癖してしまっていることはないでしょうか?もしあれば気づかせてください」と祈ります。

問題リスト9

「私たちは人を哀れむことを愛と勘違いし、自分が救ってあげれそうな人を選ぶ。そうすることで『人が恐い』という自分の欠点を見ないですむ」

「自分が救ってあげれそうな人を選ぶ」というのは、実はよくあることです。
医療関係者や介護に従事する人々の中には、このような人々が多くおられるようです。(教会関係者の中にも多くおられるように感じます)

自分の動機に気づかないまま仕事を続けるとやがて燃え尽きてしまいます。
しかし、そうなる前に「あぁ、そうか。自分は救世主症候群に掛かっていた」と気づき、妄想の産物である十字架から降り、人々と対等の立場に立つとき、自分自身とその方が奉仕する人々の人生を豊かにすることが出来るようになります。

救ってあげるというのは、救われる必要のない自分が、救われる必要のある人に向かう働きです。
しかし実際には、救われなければならないのは、この自分自身です。
そうであるのになぜ順番を間違えて、まず救ってあげないといけない自分自身を脇にどけて、他人様を救おうとするのでしょうか?
それは他人を救うことに没頭していれば、救われなければならない自分自身を見ないで済むからです。

このような生き方をしている人は自分の欠点を見ないですむために途方もなく忙しい環境に自分を置くことがあります。
「あぁ、忙しい!あぁ、忙しい!」と言っていれば、自分の欠点を見ないで済みますから、忙しくて大変なのにもかかわらずニコニコしているという場合、こんな理由が潜んでいることもあります。

そもそも対等な人間関係を構築していれば、相手にではなく自分自身に目が行かざるを得ません。
それは「人が恐い」という性格上の欠点です。

統合作業のやり方

「私は高いところから人々を哀れんでいないだろうか?」
「私は救ってあげれそうな人を選ぶことによって、自分の欠点を見ないようにしていることはないだろうか?」

これらを少なくとも一ヶ月間黙想し、教えられたことをノートに書き込みます。
半年間の残りの期間は毎日チェックするだけでも構いません。

問題リスト10

「私たちの子ども時代は悪夢のようであり、正視(しょうし)できるものではなかった。それで生き延びる術(すべ)として自分の感情を感じないために自分の本音を心の奥底に閉じ込めた」(否認)

自分の本音を心の奥底に閉じ込めるというのは、ある面では間違ったことではありません。
たとえば津波や地震の第一波に恐れわたとき嘆き悲しんでいては、すぐにやってくるかもしれない第二波に対処することが不可能になってしまいます。
ですから、そのような状況では本音や感情を押し込めて、ロボットのように対応することが必要な場合もあります。

問題はそのように対処する必要がないにもかかわらず、依然として感情を否認している場合です。
これが顕著なのがアダルトチルドレンです。
悲惨な子ども時代を生き延びるには感情を感じないように本音を押し込めるほかはありませんでした。

しかし成人した今となっては感情を感じないようにする必要が全然ないどころか、そのような生き方をしていては人生が行き詰まってしまうにもかかわらず、依然として感情を否認するという子ども時代のサバイバル術を使っているのです。

もちろんサバイバル術を使っているとの自覚を持っていないアダルトチルドレンも多いです。
そして周囲の人々と自分を比較して「何かちがう。何かおかしい」と薄々感じるのですが、その原因が分かりません。
親しい人に「そこで怒らないなんて、おかしいやろ!」と言われても「えっ、そうなん?」と間の抜けた反応しか出来ません。

感情の否認の問題はアダルトチルドレンの最大の問題と言えるかもしれません。
感情を感じないと、取るべき態度が取れず、相手の言いなりになってしまう原因になります。
また、自分では気を使っているつもりなのに、人からは「あなたは無神経だ」と言われたりします。
この原因は自分の感情を気づけない人が、他人の感情に気づけるはずはないというところにあります。

感情の否認の問題が大きいと感じられる方は、感情と情緒に問題を感じる人々の自助グループであるEAのミーティングに参加されることをおすすめします。

統合作業のやり方

「私は感情を感じることを恐れない。私は心の奥底で『人が恐い』と恐れている自分自身の姿をありのままに見る」

祈りと黙想の時間に祈ります。

「今日一日の対応の中で、あまりにもビジネスライクなところはなかっただろうか?私は人々に対して人格的に対応しただろうか?それとも機械に対するように対応しただろうか?」

一ヶ月間、チェックシートに基づいて教えられたことをノートに書き込みます。
半年間、チェックします。

問題リスト11

「私たちはありのままの自分を受け入れられたことがないので『自分はこれでいい』という自覚をもてないまま大人になった。それゆえに自分自身を限度を超えて厳しく裁く。また自己評価も非常に低い」

自分自身を病的に厳しくさばくという方はアダルトチルドレンに多いのではないでしょうか?
ありのパパもその一人です。

普段は克服しているつもりになっているのですが、何か小さな失敗を一つやらかすと途端に頭の中から「ほら、やっぱり失敗した。お前はダメな生きていてはいけない奴だ」という声が聞こえます。
そのようなときは立ち止まり、自分自身に向かって「そうではない。失敗したと言うが、うまくいっていることのほうが圧倒的に多いではないか。全体として自分の人生はうまくいっていると言うことが出来る!」と説得してあげるのです。

これが自分が自分自身の親になるということです(親替え)。
アダルトチルドレンの子ども時代は養育者に励まされたり、褒められたりするどころか、養育者は毒親であることのほうが多かったのです。

しかし今は自分が自分自身の親なのです。
親のせいにしている場合ではありません。
親を責める時間があったら、自分自身を慰め、励ましを与えることです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(聖書:イザヤ書43章4節)

統合作業のやり方

「周りも自分も『あなたはダメだ』というのですが、神が『わたしの目には、あなたは高価で尊い』と言われます。私はその神の言葉を真実とします」

このように毎日の祈りと黙想の時間に祈ります。

「今日一日の出来事の中で、自分に厳しすぎることはなかったか?」
「今日一日、自分は自分自身の愛ある親として振る舞うことができたか?」

これを半年間、チェックします。
そして少なくとも一ヶ月間は教えられたことをノートに書き込みます。

問題リスト12

「私たちは人が恐いので、その反動としてとても依存的になる。なぜなら人に依存している間は自分の中の『人への恐れ』を見ないですむからだ。そして私たちは見捨てられることを病的なほどに恐れる。子ども時代に経験した見捨てられる痛みを再び味わわないためなら何でもやってのけるほどである」

これは「見捨てられ不安」と呼ばれるものです。
問題リスト4の「見捨てられ欲求」とは違います。
見捨てられ欲求とは、わざわざ自分からダメ男・ダメ女を見つけ出してきて、その挙句にトラブルを起こされてどうにもこうにもならなくなります。
その上で自分自身に向かって「やっぱり捨てられた」とか「やっぱりうまく行かなかった」と言うのが見捨てられ欲求です。
見捨てられ欲求に正常な見捨てられ欲求はありません。
みな病的です。

これに対して見捨てられ不安は誰でもが持っているものです。
心が健康な人が持っている見捨てられ不安は健康的です。
これがないと人間関係のトラブルに見舞われることになりますから。

しかし、これも度を越すと病的な見捨てられ不安になります。
そしてこの病的な見捨てられ不安を持っているのがアダルトチルドレンということになります。

「言うことを聞かないと捨てられるんじゃないか」という恐れが、相手の言いなり、相手に依存的になる原因です。
「捨てられても構わない」とはアダルトチルドレンは中々思うことが出来ません。

それは養育者に「私はあなたの味方だよ」と言ってもらった記憶がなく、孤軍奮闘のまま子ども時代を行きたからです。
そして言ってもらった記憶がないので、大人になっても自分自身に向かって「私はあなたの味方だよ」と自分が言うことが出来ません。
これはやってもらったことのないものは、やることができないということです。
ですからアダルトチルドレンは、心が健康な人の振る舞いを参考にしたり、本を読んで学ぶことによって、自分が自分自身に向かって「私はあなたの味方だよ」と言ってあげることを習得する必要があります。

これを親替え(おやがえ)と言います。
自分が自分自身の親であれば、少なくても強力な味方が一人はいるということになり、相手に対して病的に弱気に出ることはなくなります。

統合作業のやり方

「今日一日の出来事の中で、病的な見捨てられ不安が発動したことはなかったか?」
「今日一日、私は誰かに限度を超えて依存的な振る舞いをしなかったか?」

これを黙想し、教えられたことをノートに書き込みます。

問題リスト13

「私たちは適切に考慮したうえで行動する人ではなく、闇雲(やみくも)に脊髄(せきずい)反射的に行動してしまう人である」

初動が速い人と言えばアダルトチルドレンです。
しかし気がついてみると、後からきた人に追い越されてしまったり、行き詰まって投げ出したりするはめに陥ります。

理由は物事を始めるときに考えないからです。
良いと思ったら、飛びついてしまいます。
そして後から後悔するという寸法です。

しかし都合の良いことに私たちの記憶に残っているのは初動の速さだけです。
「俺はな、人が気がついてないときに気がつくことが出来るんや」
「私はね、見えるのよ。何がうまくいくか直感的に分かるのよ」
この当然の結果として、アダルトチルドレン特徴に新たな一点が加わります。
「私たちは物事を最後までやり通すことが困難である」(笑)。

もし物事を最後までやり通す人になりたいのなら、脊髄反射のように反応する行動パターンから、よく考えて実行するパターンへと行動の変容を図ることです。

ありのパパはかつては考えなしに買い物をする人だったのですが、新たな行動パターンを採用することによって無駄なものを買うという買い物グセを克服することが出来ました。

それは「一つ新しい物を買ったら、古いものを一つ捨てる」という原則です。
それで新しい物を買いたいと身体がウズウズしたときは、自分自身に向かって「今度は何を捨てる?」と聴きます。
そうしていると段々と買い物への渇望が失せていきます。

今では「『無駄遣い』って英語ですか?」というぐらい無駄遣いに無縁になりました(笑)。

統合作業のやり方

「今日一日の出来事の中で、私が『反応』したことはなかったか?」
「私はどんなことに『反応』しているか?そして予防策にはどんなことが考えられるか?」

これらを一日の終わりに、また感情が動いたり、なくなったと感じた時に行います。

問題リスト14

「アルコール依存症は家族の病気である。私たちは「擬似アルコール依存症者」になり、その病気の特徴を受け継いでいる」

この「病気の特徴」とは精神面での強迫観念と肉体面での渇望現象の二つが問題となる病気であるということです。

強迫観念とは、やっちゃいけないと分かっているにもかかわらず、ついやってしまうことです。
渇望現象とは、いったんやり始めたら延々とブラックアウトするまでやり続けることです。

もし私たちがあらゆる面でのシラフを達成し、それを維持しようと思うなら、私たちの生活の中から渇望現象を呼び覚ますあらゆるものを手放す必要があります。

統合作業のやり方

「神さま、私が気づかないまま渇望現象に苦しめられていることがありましたら、私がそれに気づくことが出来るように導いてください」

このように祈りと黙想の時間に祈ります。

「今日一日、私はあらゆることからシラフを守ることができただろうか?」
「今日一日の中で、私が無意識のうちに渇望現象に陥ったことはなかっただろうか?」

◎回復と平安を祈っています。

コメント

  1. くま より:

    以前、棚卸しやカウンセリングをしていただいた「くま」です。
    いつもブログを楽しみに読んでいます。

    今回の共依存の定義↓で、やっぱり自分は共依存であると確認しました。

    他者を自分の思い通りに動かそうとするのと、他者の思うままに自分が動こうとするのは、一見正反対のように見えます。
    しかし、これはどちらも共依存症であることに変わりはないのです。

    私は、前者の「人に思い通りに動いてほしい」と思うのは、だいぶなくなりました。
    でも、後者の「他者の思うように自分が動こうとする」というのはドンピシャです。

    職場でも、働き者と言われています。
    実際、認められようと、また「クリスチャンとして証(あかし)になるような働き方をしなきゃ」と思い、頑張っています。

    自分の中で「この時までにこれをしなきゃ」と思い込み、余裕や臨機応変さがありません。
    他者とコミュニケーションを良く取れず、よい仕事ができていないと思います。

    でも、相手が思うように動くってのは、親切にも繋がると思うのですが。

    私は出来ない自分を見られるのが嫌でどんどん孤立していっています。
    仕事のミスも増えています。だから疲れます。

    これらのことは日常生活の中で無意識に動いていることです。

    棚卸しをしようと何度か思いましたが、ステップ4の表に書こうと思っても具体的にあてはまることがパッと思い浮かびません。
    まず何をすればよいですか?

    • ありのパパ より:

      こんばんは、くまさん。
      コメントを下さり、ありがとうございます。

      ただいま、お返事を書いています。
      来週中にはブログに掲載することが出来ると思います。

      「何をすればよいですか?」と結ばれていますが、くまさんご自身はどうしたら良いと考えますか?
      そのくまさんのお考えをお伺いしたいです。
      くまさんは聡明な方ですから、きっとくまさんなりの「こうすればいいかもしれない」というアイデアがお有りだと思います。
      そのアイデアをお伺いしたいです。

      よろしくお願いします。
      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. くま より:

    ん~。ごちゃごちゃしてます。
    まず大前提は、神様に助けを求めて祈ること。
    他、
    1.感情を感じる訓練。毎日のTO DOをこなすことに精いっぱいだから、自分の感情がどう反応しているか本当に分かりません。だから、私がこういう発言や行動をしたら相手はどう感じるか分からないのです。私が人に褒められても、気を使ってくれて申し訳ないな、とか、裸の王様になりたくないな、と思います。でも素直に受け取った方が良いと思っています。

    2.他者に受け入れられることを求めないで、自分が何をしたいかを考えて行動する。これは、最近、意識しています。

    3.人生を楽しむ。趣味を持つ。趣味を持っている人って楽しそうですよね。私、昔から趣味がありません。目的がなく楽しんだりは得意でないし、何かを追求したり、極めようと思えるものがありません。だから、自分がつまらない人間に思えます。

    など、ぐるぐると考えています。多分、時間が経てばもっと出てきます。

    でも、私の致命的なところは、意志が弱いところ、勇気がないところです。
    正しいことを決心しても続かない。以前、このブログで教わったトライ&エラーを繰り返し神のみこころに到達する、ということは時々思い出しますが、チャレンジすることは稀です。

    言い訳せずに、祈りながら、頑張ること。。。
    小さい成功体験を重ねていくこと。。。
    これができたらいいんですけど。孤立を感じるってのも、自分に都合よい言い訳に使ってるのでしょうか。イエス様を見上げるなら、自分の孤独なんてなんともないし。神様ともっと交わる時間を持てば解決されるのでしょうか。

    はっきりアドバイスをしてください。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、くまさん。
      コメントをありがとうございます。

      2017/07/19の当ブログにくまさんへのお答えを掲載する予定です。

      またコメントしてください。お待ちしています

  3. くま より:

    ありがとうございます!
    よろしくお願いします ^_^