友のために命を捨てる以上に大きな愛はない

今日は「置かれた場所で咲きなさい」をご紹介する2回目です。

著者の渡辺和子さんは「人生には目的がある。その目的とは他の人と人生を分かち合うことである」と言います。
著者のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。

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1.いぶし銀の輝きを得る

老人になるということは美しいことです。
なぜなら昨日まで出来ていたことが今日は出来なくなり、人に頼まなければならなくなるからです。
そうして人に頼むことを通して謙遜を身につけることができます。

○今日が自分の人生で一番若い日

2.悩みの取り扱い

著者は自助グループなどで体験を語り合うことについて懐疑的に述べています。
理由は、他人には自分の悩みを本当には理解できないからであるとします。
そして、それならば自分一人でお墓まで持っていくのも人生ではないかと言います。

果たして、そうでしょうか?
ありのパパはそのようには考えません。
著者はフォーカスポイントを誤っています。
フォーカスポイントは「聴く」ことではなく「語る」ことに置かなければなりません。
人の反応を考えずに、自分の内心を吐露するとき、私たちの心に助けと支えが与えられます。
この助けと支えは同じ悩みを抱えた人たちからなる共同体によって与えられるものです。
そして繰り返し自分の内面を吐露するとき、不思議な作用が心の内に起きます。
これこそが、自助グループの持つ力なのです。

3.「あなたはご大切な人」(愛を伝えるために)

ご大切とは、日本にやってきた宣教師が「神は愛です」をどのようにして日本人に伝えようかと考えたときに生まれた言葉です。

愛とは相手をご大切にすることです。
愛というと何かたいそうなもののように感じるかもしれませんが、「ご大切」「大切にする」ならば難しくありません。

ありのパパは「出会うすべての人に敬意をもって接する」生き方を志しています。
それでコンビニのレジでも「ありがとう」と言うし、高速バスの運転手さんに「よろしくお願いします」と挨拶してから乗り、「お世話になりました」と言ってから降ります。
これは「あなたは大切な人だよ」ということを伝えたいからにほかなりません。

4.許すことと赦すことの違い

著者のお父様は戦前の2.26事件で反乱軍によって射殺されました。
この当時の出来事を語るとき、著者は反乱軍を必ず「敵」と呼びます。

人ごとながら「決して許さないのだな」と感じたものです。
しかし、その理解は間違っていると気づきました。
それは許そうと許さないでおこうと、敵は敵であることに代わりがないのです。
たとえ赦したとしても、敵が敵でなくなるわけではありません。
私たちはきれいごとを言わないようにしたいものです。

5.愛は近きより

2001年に新大久保駅で韓国人留学生を含む二人が、酔っぱらってホーム下に転落した人を助けようとして、結果的に三人とも亡くなった事件がありました。

このホーム下に落ちた人は、酒に酔っぱらっていました。
ありのパパなら「昼間から酒なんか飲みやがって、自業自得だ!」と思ったかもしれません。
しかし、この韓国人留学生はそのような理屈をこねずに、その人を助けるために自分の命を投げ出しました。

聖書に出てくる強盗に襲われたユダヤ人を同胞であるユダヤ人(祭司・レビ人)は助けることをしませんでした。
それは多分、自分の仕事が忙しかったり、身ぐるみはがされたユダヤ人が汚らしくて、触るのも嫌だったからかもしれません。
そのユダヤ人をユダヤ人に蔑(さげす)まれていたサマリア人が助けました。

ちょうど同じように一部の日本人が蔑んでいる韓国人が、私たちの同胞を助けたのです。
このホーム下に落ちた人こそ、強盗に襲われたユダヤ人であるのです。
このことが、大きな衝撃を私たち日本人に与えた真の理由ではないでしょうか?

◎私たちに大きなことはできない。しかし小さなことに大きな愛を込めることはできるのです。(文中にあるマザー・テレサの言葉)
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. くま より:

    私の尊敬する先生が、良きサマリヤ人の話から「神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」というお話をされました。

    私はこのブログから、「自分を愛した分だけ、他人を愛することができる」という黄金律を手にしたと思い、人に厳しいときは自分に厳しく余裕がないときだとか、日々、人に対しての態度を自分への受け入れ方で量っています。

    しかし、その先生は、この黄金律のような考えは最近よく言われていることだけれども、結局焦点が自分にある。
    みたまによって私たちは変えられて行き、自分ではなく、他の人の必要に焦点があてられる。
    いつまでも、自分、自分に焦点が当たっているのは、神様は喜ばれないという内容を話していました。

    全くそうだと思いますが、私は信仰生活10年以上経ちますが、いまだ自分に焦点が当たりっぱなしです。
    でも、人の必要が分かったとき、それに応えようとはします。(自然にはできず、義務感からが強いのですが。)

    もしかしたら、この先生は今も愛する家族に囲まれて、小さい頃から愛情たっぷり与えられて育ち、自分を愛そうとしなくても十分自己受容ができているのかな?と思いました。

    私が信じている黄金律はアダルトチャイルドでない人には当てはまりませんか?

    • ありのパパ より:

      こんにちは、くまさん。
      コメントをありがとうございます。

      一見難しい問題のように思えますが、そんなことはありません。
      簡単な問題です。

      12ステップの中でよく使われる祈りに次のようなものがあります。
      「神様、今日一日だけ私のためにではなく他者のために生きることができますように。そのための知恵と力をお与えください。」

      私もこの祈りをもって一日を始めています。
      なぜそのようなことをするかと言えば、そのように生きるとき神の恵みが私の心と生活の中に流れ込んできて、私の回復と成長を促進させるからです。
      そのことを知っているので、自分自身を手放して神に委ねることができるのです。
      かつては委ねたら最後、ボロ雑巾のようになってしまうのではないかと恐れて、本当には委ねることができませんでした。

      その先生のおっしゃることは正論です。
      しかし、現実を反映していません。
      そして聖書に書かれてあることとも矛盾します。
      第一、その方のおっしゃるような生き方が可能になったとき、果たしてそのときでも無力であると言えるでしょうか?

      理論的に正しくても、霊的には間違っているということはたくさんあります。
      聖書的か?建徳的か?実際的か?論理的か?霊的か?
      どうぞ、5つのフィルターでふるいに掛けてください。

      平安と祝福を祈っています。

  2. くま より:

    返信、ありがとうございました。

    その先生が言っていることも、ありのパパさんが言っていることも、私には難しくて理解ができません。
    先生のメッセージ原稿をいただきましたが、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」あなたのように=あなたと同じように、同じくらい、といった意味で、ギリシャ語でも「自分に本来神様が備えてくださった性質のように」と受け取ることができる。
    例えば、目の前に物が飛んできたときに、自然と目をつぶるような自然な反応ということなのです。
    つまり、そこまで自分で自分をどのくらい愛しているかなどに、焦点を当てる必要はないのだ。
    イエス様の視点はいつも他者に向いているのです。とのこと。

    自分が自分をどれ位受け入れているかに焦点を当てるのではなく、自分は自分を既に受け入れているものだから(それが自分で気づいていようと気づいていなくても)、そのように他人にもしなさい、(自分にしてほしいことを他の人にもしなさい、と聖書の他の箇所にありますが、そういったことですか?)とのことでしょうか?

    それと、私は極端な考え方になりがちなのですが、
    他の人のために生きるとなると、自分を満足させてはいけないような
    何かを楽しんだりするのはいけないような考え方をもってしまいます。

    自分に焦点をあてない = 人の為に生きる → 自分はボロ雑巾

    ↑こうなってしまいます。今、私は人の為に生きようとして、仕事に追われ、失敗が続きボロ雑巾状態です。
    今日は休みをとってしまいました。失敗のゆえに、人に会うのがコワいです。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、くまさん。
      コメントをありがとうございます。

      コメントの内容が難しいすぎて、私が分かりません(笑)。
      ただ、一つ言えるとすれば、次のことが言えます。
      それは他者受容に励む中で、他者の受容しきれない部分が、自分自身をまだ受容できていない部分であるということです。
      ですから他者受容に励むことは、自己受容を促進させることになります。

      よろしくお願いします。

  3. くま より:

    ありがとうございました。
    他者の受け入れられない所は、自分の中にある受け入れられないところであること、
    確かにそう思います。
    他者受容=自己受容 どちらが先でも、いいんですよね。
    受容できるよう祈ります。