病的な支配欲求は手離すものではなく、無力を認めるべき対象

今日は皆さんとご一緒に、病的な支配欲求は手放すことで何とかなるものか、それとも無力を認めることによって回復すべきなのかを考えます。

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1.手放して何とかなるものと、無力を認めないと何ともならないものの区別の仕方

①健康な支配欲求と病的な支配欲求を区別する

もし支配欲求がなければ大混乱に陥るでしょう。
たとえば私たちはスケジュールに従って物事をこなしていきます。
しかし当然のように横やりが入ったり、トラブルが発生したりします。

このような時に「そういうこともあるさ~」と高を括っていれば一見幸せそうに見えますが、そのしわ寄せは周囲の者が被(かぶ)っているのです。

健全な支配欲求は自分が立てたスケジュール通りに物事を進めようとします。
これに対して不健全な支配欲求は自分が決めた通りに物事が運ばないと怒りを感じて爆発しそうになります。

②病的な支配欲求は手放しても効果がない

12ステップグループのスローガンに「手放して、あとは神にお任せ」というのがあります。
これは大変に効き目のあるものです。

しかし、もしあなたが「手放しても手放しても戻ってくる。戻ってくるばかりでなく効果がないように感じる」のでしたら、それは手放して何とかなるものではないのかもしれません。

③無力を認めるということは強迫観念として認めるということ

病的な支配欲求はアルコール依存症における飲酒欲求と同じように、無力を認めることを通して回復を図ることが必要です。

2.ありのパパが電車を待っているとき、また事件が起きました(笑)

それはホームの4つしかない椅子に女子高生二人がそれぞれ自分の荷物を隣の席に置いていたのでした。
そのため四つある座席は一杯であり、座れずに立っている人が何人もいました。

心の中では脳内妄想ストーリーが発烈していました。
それはすなわち「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、あのな、あんたがたが自分の荷物を椅子に置いているせいで座れない人がいるんやで」というものです。

そして今までですと、話しているうちに自動的に怒りが爆発していました。
これの原因は怒り依存症であるのはもちろんなのですが、病的な支配欲求もかかわっています。
それは「あなたはこうすべき。あなたはこうしなければならない」という病的な支配欲求が根底にあるということです。

今では病的な支配欲求に対して無力を認めていますので、女子高生に対して感情的な何物も感じることがありませんでした。
涼しい顔をしていられました。

そのような中で気づいたことがいくつかありました。
それは他の人も自分と同じように腹を立てているに違いないと思い込んでいたのですが、まわりの人々の表情を見ると、誰も気にしていないのが明らかなのです。

かつては「人々を代表して自分が怒っている」みたいな感情がどこかにあったのですが、それは全くの一人芝居でしかなかったのでした。

そのようなことがあった日にもう一つ事件がありました(笑)。

それは会社帰りの男女が大声で話していたのですが、私が座っていた席のとなりのおじさんが、その車内で大声で話している人々を睨み付け、ぶつぶつと文句を言っているのでした。

かつての自分を、そのおじさんに見るようでした。
心の中でおじさんに「怒りが暴走するのを放っておくと、私みたいに大変なことになりますよ」と申し上げていました。

3.ステップの2の「~信じるようになった」とはどういうことか?

ありのパパはこの文章を長い間理解できませんでした。
それはキリスト教信仰では、信じるということは明確に自分の意志で決心すべきものであると考えているからです。

回復したいのなら明確に「自分を超えた大きな力」を信じるのが普通のことではないかと言うわけです。

しかし分かったことは無力を認めることと信じることは密接に結び付いているということでした。

ある人が「私は信じているにもかかわらず、さっぱり回復しない」と言ったとします。
その場合は本当に徹底して自分の無力に気づいているかどうかを確かめることです。

自分でも気づいていない本音のところで「私も捨てたもんじゃない。それに少しは力もある」と思っているなら、いくらステップの2を踏んだところで、それはむなしいことです。

もし私たちが本当に自分が無力であることに気づいたら、そしてそれを認めたら、自然に「自分を超えた大きな力」を信じるようになります。

◎平安と祝福を祈っています。