失望してないで思い切って絶望しちゃいましょう!

日々の生活の中での小さな失望の積み重ねは私たちから生きる力を奪い、無気力にしてしまいます。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.なぜ失望するのか?

①100点の自分と無意識に比べている

私たちは知らず知らずのうちに万能感に支配されているものです。
ことにこの傾向は日本人に強いように思われます。
実況中継などを聞いているとアナウンサーが「惜しい。もう少しだったのに!」などと言っているときがあります。
しかし事実は99%うまくいっているのです。
そうであるのに1%のうまくいかなっかた点に焦点を当てているのです。
このおかしさに気がつかなければなりません。
もちろんオリンピックなどですと金メダルと銀メダルの違いは大きいです。

しかし人生はオリンピックではありません。
いやむしろ平凡な一日の積み重ねが人生なのです。
問題はこの何でもない日々を失望しないで過ごしているかどうかという点にあります。

②治る(原因が取り除かれること)ことを無意識に期待している

これは特に依存症的傾向をもっている人に多いです。
だれあろう、ありのパパがその人です(笑)。
渇望の波が襲ってこない日々が続き、自分が依存症であることを忘れているときもあります。
危ないのは、そんなときです。

突然、渇望の波が襲ってきます。
(というのは偽りの自己認識であって、同じ条件・環境が再現されるなら、依存症特有の渇望の波はいつでも襲ってきます)
そのようなとき「やっぱり治ってなかったんだ」と気落ちします。

ただ、この場合の失望は有益な点もあります。
なぜなら失望するたびごとに謙遜になれるからです。

2.現実はどうか?

①精神面での強迫観念と肉体面での渇望現象は生きている間はなくならない

これが現実に意味するところは、生きている間は誘惑という形で様々な惑わしが連続して襲ってくるということです。

これは潔癖(けっぺき)な人には耐えられないことではないでしょうか?
なぜなら誘惑と戦うということ自体が「自分は汚い存在である」という事実を認めざるを得ないことだからです。

「罪人なんだから汚いなんて当たり前じゃないか」というのはもちろん正論です。
しかし人間は弱い存在であり、例え建前で「自分は罪人である」と認めたとしても、本音では「それでもちっとは善人の部分があるんじゃない?」と思いたいものなのです。

嘘だと思ったら、敬虔に見えるクリスチャンに「あんた、本当に汚らわしいな」と言ってみてごらんなさい。
きっと首を絞められること必定です(笑)。

②誘惑はなくならない

心のどこかできれいさっぱり治ってしまうことを期待しているなら、繰り返し誘惑される自分をいつかは赦せなくなってしまいます。
「いつまでたっても誘惑を遮断できないダメな自分」というわけです。

しかし、ちょっと待ってください。
罪人って、そういうことではないのでしょうか?

私たちにできることは、誘惑が襲ってくるたびに頭(こうべ)を垂(た)れて「私には出来ない。しかし神には何でも出来るからである」と祈ることです。
一日に何回でもそのようにいたしましょう。
聖人みたいで格好いいじゃありませんか!(笑)

3.思い切って絶望する

日々の生活の中での小さな失望の積み重ねは私たちの霊的生命を枯渇させます。
しかしもし私たちがそんな自分自身に対して絶望するなら、事態はがぜん変わってきます。

絶望とは「自分は治らない。死ぬまでこのまま」という事実を認め受け入れることです。
そしてこの絶望は私たちをして現実的な回復への道を歩ませるように導きます。

まさに「私は治らない。死ぬまでこのまま。しかし回復は可能。だから回復に専心しよう!」ということです。

生きている間ずっと、この回復の軌道に乗り続けることこそ、神が私たちに願っておられることです。

◎平安と祝福を祈っています。

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