真の聖(きよ)さとはどのようなものか?

聖いとか、あの人は敬虔だとか、いろいろな言われ方がされます。
しかし私たちは案外、聖さとは何かを知らないまま漠然としたイメージだけで、この言葉を使っていないでしょうか?

今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

「愛する皆さん。私たちはこのような約束を与えられているのだから、すべての汚れから自分を聖く保ち、神を恐れつつ、聖さに向かって進もうではないか」〔コリント教会への手紙〕(現代訳聖書)

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1.聖さをイメージで捉えるのは危険

聖いとはどういうことかを具体的に分かっていないと、私たちは知らず知らずのうちに次第(しだい)に聖い人を演じる人に堕(だ)していきます。

演じるとは、あたかもそうであるかのように振る舞うことを意味します。
12ステップでも同じことを言います。
しかし、これは全然異なることを意味しています。

12ステップが教える「あたかもそうであるかのように振る舞う」は、自分がそのような者でないことを徹底的に知った上で、神が私に新しい性質を与えてくださると信じ、その信仰に従って歩みをなすということです。

それに対して「あたかも聖い人であるかのように振る舞う」が意味しているのは、実際に自分が聖い人であると勘違いした上で、他人の目を意識しつつ、演じ振る舞うということです。

これは偽善であり、神の御前で罪です。

2.聖いとは、罪を犯さないこと

聖いとは、まず第一に罪を犯さないでいることです。
法律的な意味における犯罪を犯さないのはもちろんこと、道徳的・倫理的な意味においても罪を犯さないことです。

ただ、ここで気を付けないといけないのは倫理水準を聖書以上に高いところに置いてはならないということです。

クリスチャンのカウンセリングをしていて感じるのは、たとえば聖書は飲酒を禁じていないにもかかわらず、お酒を飲む自分を裁いている方が多いということです。

聖書は酔うこと(泥酔を指しています)を禁じていますが、むしろ酒を飲むことを勧めています。
そうであるのに聖書に対して勝手な解釈をして一人相撲(ひとりずもう)をとるのは正しいことではありません。

(追記)罪を犯さないでおくことをまず第一の目標にするべきですが、もし残念なことに罪を犯したら、そのときはどうしたら良いでしょうか?
そのときは、悔い改めて再出発することです。
元々、罪に対して無力であることを認めた私たちが、それ以外に何ができるでしょうか?
何もできはしません。ただ、悔い改めて、再び神様になら自分を救うことができると信じて歩みだすのです。

罪を犯したときに意気消沈するのは人間的には共感できます。
しかし余りにもそこに固着するのは実は自分の無力を本当には認めていないからです。
心のどこかに「『出来る』と思ったんだがなぁ~」という我力が潜んでいるのです。
そういうときは「神様、ありがとうございます。このことを通して自分の傲慢に気づくことが出来ました。再び自分の無力を認め、神様になら自分を聖く保つことが出来ると信じます。よろしくお願いします」と祈り、信仰の歩みをなそうではありませんか。

3.聖いとは、自分の無力を認めて、神になら自分を救うことが出来ると信じること

ある方は「それは義認(ぎにん)でしょう。聖化とは関係無い」と言われもしれません。
しかし、そうではありません。
聖化は義認の時に始まるものだからです。

そして神の御前でもっとも醜いのが我力で救いに到達しようとすることです。
これが罪の中の罪であり、罪の本質と言えます。

また自分の無力を認めて神に信頼を置いているときが、聖霊である神が一番働きやすい状態です。
我力で凝り固まった心には全能の神であっても働き掛けることがお出来にならないのです。

4.聖いとは、性格上の欠点・短所が取り除かれていること

現代に生きるキリスト者の弱点は信仰と性格的な問題を分けて考えてしまっていることです。

これは中世のキリスト教が人格の完成と救いの関係をまちがって理解したことの反動であるといえます。

プロテスタント・キリスト教がいったん手放してしまった尊い真理を12ステップを通してもう一度取り戻すことができたと、ありのパパは考えています。

5.「聖く保つ」と「聖さに向かって進む」

これは実は別のことを言っています。
もし同じことを言っていると理解するなら、文法的に破綻してしまいます。
正しい理解は以下の通りであると、ありのパパは考えます。

はじめの「聖く保つ」は文字通り罪を犯さないことを意味しています。
依存症で言えばスリップしないということです。

アルコール依存症者にとっては酒を一滴も飲まないことであり、怒り依存症者にとっては怒るのを一切やめてしまうことです。

二番目の「聖さに向かって進む」の聖さとは、性格上の欠点を神に取り除いていただくことを指しています。
この営みは一生涯続くものです。

聖書にある通り、まず第一に私たちは「聖さを保つ」ことが絶対に必要です。
ここにおける妥協は死につながります。

次に私たちは自分の性格上の欠点・短所を神に取り除いていただくという営みに向かっていきます。

「ねぇ『聖さを保つ』だけじゃダメ?」
「もちろん、ダメです。なぜなら短所を取り除いていただく営みに向かわないなら、聖さを保てなくなるのは時間の問題だからです。OK?(笑)」

◎平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    「聖さを保つ」→「聖さに向かって進む」(性格上の欠点を神様に取り除いて頂く)
    →そのためには自分の性格上の欠点を知る必要があり→やっぱり棚卸し表の作成が必要!?……。

    12ステップって、うまく出来ていますね。ステップ5をなんとかしたつもりで、スルーしようとしてもやっぱダメか~。(勝手にスルーしようとすんな!!←自分ツッコミ)

    • ありのパパ より:

      おはようございます、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      やはりそちらも大雨でしょうか?
      もしそうだとしたら、大雨のなかご出勤お大変ですね。
      そんな中でもコメントしてくださり感謝をいたします。

      そうですね。「はじめてから、このような形でキリスト教を提示していてくれたら、こんなに回り道をしなくても済んだのに」という思いもあります。

      しかしそうは言っても「はじめに喉が乾いた者が井戸を掘る」という格言があるように、私がそのように人々に提示すれば良いだけの話と一人納得しています。

      お気を付けてお仕事してください。
      平安と祝福を祈っています。
      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    こちらも大雨です。カッパを着て仕事をしております。

    いつも祝福を祈ってくださりありがとうございます。

    ありのパパさんの働きのも、主の祝福が豊かにありますように。