会衆の中で祈るとき、なぜドキドキするの?

今日は読者からのご相談にお答えします。
皆さんも「私なら、こう答える」と考えながらお読いただけると幸いです。

…………ここからご相談…………

私の教会はペンテコステで、礼拝中の祈りを自由に献げることがゆるされている教会です。

牧師先生から「リーダーは積極的に(いのりを)捧げるように」とたまにリーダーの集まりのとき、おすすめがあります。

私は、まれに捧げます。

メッセージ後の応答の祈りの時間、その内容を自分のものと受け取りたいと強く思ったときや、誰も祈らなくて間が空いてしまうときにします。

でも、祈っている最中や祈った後で過剰に心臓がドキドキします。
ときどき言葉を発するのに息切れをし、明らかに超緊張しているのが回りに伝わると思います。

これは無理して祈っていますか?

でも、本心です。
でも、その後「言葉を間違えなかったか」とか「言葉足らずで意味伝わっているかなー」とか「弱々しい祈りだった」って不安が襲ってきます。

いつもの自分を責めるパターンが始まりす。
じゃあ、大人しく祈らなければいいけど、それじゃあ、自分の本心と異なります。

心臓ドキドキスイッチはなんでしょうか?

…………ご相談はここまで…………

こんにちは、くまさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。

失礼ながらご相談をお読していて「突っ込みどころ満載だな」と思ってしまいました。

ご相談は一番最後の「心臓ドキドキスイッチはなんでしょうか?」になると思いますが、直接そこに行かないで順繰(じゅんぐり)りに考えてみたいと思います。

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1.「自由祈祷」を強制したら自由祈祷にならない

「いや強制ではなく、お勧めです」と言われるかもしれません。
しかし、くまさんと牧師の関係から見て、またリーダーの集まりの時に奨励(しょうれい)されているのを見ても、これは「強制ないしは半強制」に近いものです。

この状況で心臓ドキドキスイッチが入らないようにすることなどできるものではありません(笑)。

ですから真の問題は、くまさんが強制で祈らされているにもかかわらず「自分は自発的に祈っている」と勘違いしてるところにあります。

この解釈は、ちょっと乱暴に過ぎるでしょうか?

しかしくまさんが、もし本当に心臓ドキドキスイッチを入れたくないと願われるのであれば一旦立ち止まって考えてみる必要があります。

2.スタッフの祈りには目的がある

もし、祈りが神様と自分だけの交流であるとするなら、集会での祈りはすべて無言の祈りになるでしょう。

しかし実際には祈りには、それ以外の目的もあります。
その目的とは会衆に説教のまとめを再確認してもらうことです。
また、あるべき応答の姿とはどんなものかを見てもらうという意義もあります。

会衆のほうでもスタッフが祈っていれば、そのつもりで祈りを聞いているものです。
心ある会衆ならば、スタッフの祈りから教えられようとする心の姿勢を持っています。

ですからスタッフの祈りは会衆に向けての祈りという側面があるのを理解しておくことが必要です。

3.本音の祈りと建前の祈りと自己一致の祈り

a.本音の祈り

ありのパパがスタッフであれば「牧師のここを何とかしてほしい」などと祈ってしまうかもしれません(爆笑)。
しかしそんな祈りを捧げたら、牧師は恥をかくことになります。

「自分にして欲しくないことは人にもしない」というのが人間関係の鉄則ですから、心のなかでそう思っていても、決してそのようには祈らないわけです。

b.建前の祈り

では自分の本音を押し殺して、牧師の説教の要旨を祈ればよいのでしょうか?

そのように祈れば牧師の受けは良くなるかもしれません。
しかしそれでは自分にとっても会衆にとっても砂を噛(か)むような祈りになってしまいます。

そのような建前ばかりの祈りをしていると集会の中から御霊の働きがなくなってしまいます。

これを「御霊を消す」と言います。
聖書には「御霊を消してはならない」と言われています。

c.自己一致の祈り

ではどうしたら良いかというと、牧師に向けて「確かに説教を聞いてたよ!」という励ましと、会衆に向けて「牧師はね、みんなにこのように説教を受け止めて欲しいんだよ!」という模範を示すことを常に頭に入れておくことです。

これだけでは建前の祈りになってしまいますから、自分の本音も祈りに入れます。

たとえば「そうありたいと願っているのだが、そうなれない自分がいるのです」という心の葛藤や苦しみを祈りのなかで告白します。

そうすると、会衆に対しては「実は私もそうだ」という共感を生みますし、牧師に対しても「ここが問題の勘所(かんどころ)なのか。よし次の説教はそこに焦点を当てよう!」などのサジェスチョンを与えることができます。

4.「ありのまま」と「そのまんま」

そのまんまとは関心の対象が自分だけに止まっている状態です。

ありのままとは自分のありのままを受け入れるように、他者のありのままをも受け入れる生き方です。

このような生き方から、自分が自分自身に真実に生きていきたいという願いに忠実であるように、牧師にも、会衆にもそのように生きていただくために私ができることをやっていこうとする姿勢が産み出されていきます。

5.スタッフの祈りは役割を果たす祈り

スタッフの祈りには「役割を果たす」という側面があります。
そのことに気づくことができれば心臓ドキドキスイッチは入らなくなります。
さらに自分の本音をそこはかとなく祈りの中にお入れになることです。
そうするとご自分も会衆全体も生き生きとして参ります。

◎平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. くま より:

    教会スタッフである以上、祈りも公のものであり、模範を示すものとの意見に教えられました。

    私は自分の内面を普段から人に話すことが苦手で、していません。
    だから祈る時にときどき、言葉のチョイスが分からなくなってしまうことがあります。
    一人で祈る時は、わりととりとめのないおしゃべりのように祈っています。
    普段から簡潔にみことばやメッセージの要約や応答の意見を言ったり、祈りの練習をしたらどうかと思いました。(できるかなー?)

    ありがとうございました。

    先日もものすごく祈りで緊張してしまい、シドロモドロの祈りを捧げてしまいました。
    いまだに思い出すと、聖なる礼拝を汚してしまったような感覚を覚え、兄弟姉妹への申し訳なさや自分の恥になってしまったことを恥じて辛いです。
    でも、決して建前では祈っていません。メッセージに応答したかったから祈りました。
    感情が先走ってしまったんですね。。。
    イエス様はこの祈りをどう思われているでしょうか。

    今回の記事を読み、スタッフとしての自覚を持ち、祈りにおいても成熟を目指したいと思いました。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、くまさん。
      コメントをありがとうございます。

      う~ん。人それぞれですね。
      私はくまさんとは逆に会衆の中での祈りは得意だが、一人で祈る祈りは不得手であるという偽善者です(笑)。
      「とりとめのない祈り」って何やねん!という感じです。

      ・おっしゃる通り、練習ですね。
      意識的に練習していれば、時期が来れば意識しないでも要約した祈りをすることができている自分に気づくときが必ずやって来ます。

      これは人の話を聞くのも同じです。
      かつては合いの手を入れすぎて、人の話の腰を折るばかりであったのが、意識して人の話を聞き、聞いたことを要約するという練習をすることによって、今度は意識しなくても人様の話の要約を繰り返すことができるようになります。
      (これは私のことを言っています)

      ・イエス様はもちろん喜んでおられますよ。
      スタッフの責任を果たす祈りとは、要するに人に向けた祈りですから、イエス様が私たちを判断されるのに何の影響も与えません。

      (私)「神様、また失敗してしまいました」
      (イエス様)「これでまた人の気持ちが良く分かる人に近づいたね(笑)」

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. くま より:

    とりとめのない祈りとは、あのこと祈って、その間にあのことも思い出して祈ってとか、女性同士のおしゃべりにありがちなグルグルとした会話と言ったら分かりやすいでしょうか。
    祈りなのに自問自答したり。
    祈りにおいても成長したいですね。

    イエス様は私の祈りを喜んでいるとは、驚きの回答!イエス様の憐みに感謝です。
    大きな愛に包まれて、自分にも人にもその愛を向けられたらいいな~。
    いつも誰かを責める思考回路を手放したいです。
    イエス様の十字架から目を離せませんね。

    はあ~。努力なくして回復はありませんね。
    人の話聞くのも、人の話の受け答えも得意ではない。
    日々、練習、日々、勉強だ!
    イエス様の助けを求めます。

    ありがとうございました。
    いつも本当に教えられ、助かっています。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、くまさん。
      コメントをありがとうございます。

      神との親密な関係を築くのは女性のほうが有利かもしれませんね。
      男性の場合は、祈る前に「今日はこれを祈って、あれを祈って、それで終わり」と段取りを決めていますから。(これは私だけかも知れませんが)

      ・人の話を聞く訓練のことを「傾聴(けいちょう)の訓練」と言います。
      人生のどこかで集中的に自分の話をせず、人の話だけを聴くということを行うと良いかもしれません。

      私たちの人生航路はポンコツの自動車を運転しているようなものです。
      「パ~ン!パ~ン!」と時々音をたてながら、道を進んでいきます。
      そのような様子を「ワッハッハ!」と笑い飛ばしながら生きていきます。
      「生きているだけで丸もうけ」ですね。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    祈りについての分かち合いって、けっこう相手のことや教会の雰囲気がわかってないと難しいですよね。
    だいぶ昔になりますが、超教派の働きでお互いが「ん???」になってしまったこともありましたが、それはそれで今思えば面白かったですけれども。

    ブログ記事やコメントで、抽象的な概念(祈り、信仰、聖化、12ステップなど)を良く相手に伝わり安いようにできるなぁ~、と今回も感動しております。

    さて、自意識過剰気味に書いてしまいますが、私は会衆の前での祈り(説教の前の代表祈祷や説教の後の、説教に応答する祈り)は指名されれば普通にしますし、どうも一緒に礼拝している方々にも、耳障りが良いようです。
    ありのパパさんが「なんやねん、それ!?」と言われる、とりとめのない祈りや自問自答の祈りについても「ある、ある!!」と共感しまくりです!!(ありのパパさんが仰っているように、これは男性では珍しい部類のようです。)

    「自己一致の祈り」「ありのままの姿勢」「役割を果たす祈り」、とても勉強になりました!!ありがとうございました。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      マッキーさんの今回のコメントに共感しまくりでした(笑)。
      超教派の集会では、(今から思うと)ホーリネスやペンテコステの人々は自意識過剰でしたね。
      これは実は私のことを言っているのですが。

      「超教派」という言葉の意味を教派間の合同集会と考えていれば、もっと配慮のある対応ができたろうにと考えます。

      またコメントしてください。お待ちしています。

    • マッキー より:

      くまさんへ

      ありのパパさんとは別方面からのお勧めです。

      祈りの練習、とありましたが、会衆の前で自由に祈れる方には「?」かも知れませんが、良いと思います。
      Aバージョン、Bバージョン、Cバージョン、と
      3つぐらいあるとべんりですよ~。
      説教に応答する祈りの場合は、主題聖句や単語(罪の赦し、救い、癒し、信仰、希望、愛、捧げる、自己犠牲などなど)をちりばめれば、バッチリです。

      決まり文句に最初のうちはなってしまっても、肝腎なのは神様に心が向かっていることと、祈りの言葉に心を重ねる、思いを乗せることだと思いますよ~。

      なんか的が外れていたらゴメンナサイ。

      小さい子供の素直な祈りに心撃たれる今日この頃です。