神の恵みをいい加減に扱うとはどういうことか?

コリント教会への手紙第二の6章1節には「神の恵みをいいかげんに扱ってはならない」とあります。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

スポンサーリンク

1.神の恵みをいい加減に扱うとは?

①神の恵みとは何か?

ここで言う神の恵みとは「救いの恵み」を指しています。

旧約聖書のイスラエルの人々は律法(りっぽう)という神のおきてを与えられ、そこに書いてあることを守りきるなら救われ、できないなら滅びるとされました。

この律法による救いが与えられた真の目的は「律法を守ることによっては何人(なんぴと)も救いに達し得ない」ということを真に悟るためでした。

これは若い人々が万能感に満たされて「我、一等 。やれば何でもできる!」とばかりに人生を邁進するのに似ています。
やがて壁にぶつかり、人生に対して焦燥感や諦(あきら)めを持つようになります。

このような「自分の力では決して救われることができない」と悟った人々だけが神の恵みを受け取ることができます。

〇なぜなら自分の無力を認めた人だけが「神様ならこんな自分をお救いになることができる」と信じるようになるからです。

② 神への奉仕の生活も、無力を認めて、恵みを信じる代わりにはならない。

クリスチャンからよく聞くのが「奉仕も十分できなくて、神様に申し訳ない。私は不十分なクリスチャンです」というのがあります。

そのようなことを言う人にありのパパが「無代価で救われたあなたが何かできると考えること自体がおかしいのではないか?」と言うと、たいていの方は「そんなこと、分かってる!」と憤慨(ふんがい)されます。

しかし本当に分かっていれば、そのようなセリフが出てくるはずもありません。
恵みをいい加減に扱っているからこそ、そのような泣き言が出てくるのです。

〇どんなに頑張っても遂に救いに到達できなかった私を、神はキリストを私の身代わりに十字架におつけになることによって努力なしに私を救ってくださったという理解は、あなたの人生を支配する原理になっておられるでしょうか?
それとも小難(こむずか)しい単なる神学でしかないのでしょうか?
私たちお互いは自分の本心を振り返ってみたいものです。

③聖霊充満は我力で生きるための神の道具ではない。

「こんな私が救われた!」と思っていたのも束の間(つかのま)、気がつくと「救われたにもかかわらず、こんなダメダメな私」という自己憐憫に陥っている人がいます。

そんな人が飛び付くのが聖霊充満です。
「これさえ自分のものにできれば、ダメダメな自分ではなくなる!」とばかりに一生懸命に聖霊に満たされることを求めます。

聖霊に満たされると、しばらくの間は天国にいるかのような高揚感を味わいます。

しかしやっぱり元の日常が戻ってきます。
「なんで?なんで?こんなはずじゃないのに。分かった!恵みが足らないんだ」と今度はあちこちの聖会を渡り歩くようになります。

このような残念な、しかしある意味では典型的なペンテコステ派の信者になってしまう原因はどこにあるのでしょうか?

それは人間には自分の行いによって救いに到達したいという根深い欲求があるためです。
聖書はこれを肉性(にくせい)とか肉の思いとか律法主義とよんでいます。

2.神の恵みを真摯に扱うとはどういうことか?

「我力(がりき)によっては決して救われ得ない」と言えば、多くのクリスチャンは「そんなこと分かっている」と言うでしょう。
しかし今度は「救い」という言葉を「立派になる」とか「恵みに溢れたクリスチャンになる」とか「人々の前で模範となる」という言葉に代えるなら、返ってくる言葉はちがったものになるのではないでしょうか。

①全くの無力な存在であることを認める。

無力な存在なのですから、どだい神にふさわしい自分になろうとすることなど出来るはずもないのです。
それができると考えるのは律法主義にやられているからです。

②神様になら、こんな自分を救うことが出来ると信じる。

神を信じた者が持つべき相応(ふさわ)しさとは、立派な人になることではありません。
そうではなく正直な心で自分の無力を認め、神への信仰を告白する人になることです。

無力を認めることと神様ならこんな自分をお救いくださると信じることは、いつでもセットになっています。
決してふたつのものを切り離して理解することをしてはなりません。

◎私たちお互いは「神の恵みをいい加減に扱う」ことがないように心したいものです。
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    「正直な心で自分の無力を認め、神への信仰を告白する人」

    こういう人に私も成りたい、と思い始めたのが洗礼を受けてから25年以上経ってからでした。
    お、遅い…。与えられた人生がもったいな~い(泣)

    神様からの恵みと導き、一定の成熟、苦しみを通してのみ与えられるもの、優れた教師・メンター、私にとって「正直な心で自分の無力を認め、神への信仰を告白する人」を目指すまでには多くのことが必要でした。

    救われて以来、この信仰姿勢をおおむね堅持しているような方々は、案外教会では目立たず、後ろの方の席に座っていつも静かに微笑んでいるような人なのかなぁ、なんて思ったりしました。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      味わい深いコメントをありがとうございます。

      苦しむだけ苦しんでから救われると「正直な心で自分の無力を認め、神への信仰を告白する人」になり、万能感をもったまま信仰をもってしまうと、入信してから苦しむだけ苦しむことになると思います。

      でもね、乱暴なことを言うと、どちらでも同じではないでしょうか?
      「終わり良ければ、すべて良し」と言いますし。
      今は平安をいただいて心が満ち足りているのですから、それで良しとしようではありませんか。

      今日も一日、心静かに元気でお励みください。
      平安と祝福を祈っています。

      またコメントしてください。お待ちしています。

      • マッキー より:

        ありのパパさんへ

        コメントの最後のお言葉、いつも心に染み入ります。
        お祈り感謝します。

        「乱暴なことを言うと、どちらでも同じ」

        おぉー、なんか激しく共感しました。

        この境地(なんか違うな、でも他の言葉が思い浮かばない)にたどり着くまでには、どれ程のことが必要なんだろう!?って、ふと、思いました。

        私も50歳前のおっさんで、ようやくそんな地が遥か彼方に見えてきたようにも思える今日この頃です。(なんちゃってクリスチャンが勝手に勘違いするな!!←自分ツッコミ)

        • ありのパパ より:

          こんばんは、マッキーさん。
          コメントをありがとうございます。

          「さあ、今から風呂入って寝ようかな」というところで、マッキーさんのコメントが入ってきました。
          今日も一日、お仕事お疲れさまでした。
          神様の恵みにより、一日をお過ごしになられたと思います。

          「なんちゃってクリスチャン」いい言葉ですね。
          恵みによって無代価で救われた者が何者かになろうとするところにサタンにつけ込む隙(すき)を与えてしまったのかもしれません。

          またコメントしてください。お待ちしています。