「忘れていたものを思い出しそうです」

今日は読者のご相談にお答えします。
皆さんも「自分ならどのように答えるか?」と考えつつお読みいただけると幸いです。

…………ここからご相談本文…………

はじめまして。
56歳です。
30歳のころ、ペンテコステ派の単立教会で洗礼を受けました。
41歳の再婚で遠方に来たため、母教会とは離れてしまい、今ではノンクリスチャンと変わらない生活状況です。

嫁いだ先は自営業で、結婚直後から大変な経済状況となり、朝から晩まで休む間がなく、聖書を読む習慣も祈る習慣も途絶え、本当に困ったときだけ牧師やかつての信徒仲間に電話して祈ってもらいアドバイスをもらっていました。

神様の存在は疑っておらず、イエス様も信じています。
でも、あまりに距離があって、あまりに自分勝手に生きてきたので、どうしたらいいかわかりません。
ありのパパさんのブログはすーっと入ってきます。
忘れていたものを思い出しそうです。
的を得ない話ですみません。
今のままではいけないと思うのです。

…………ご相談はここまで…………

こんにちは、あゆままさん。
ご相談をくださり、ありがとうございます。

あゆままさんのご相談メールを読みながら、不謹慎ながら井上陽水の「忘れ物は何ですか?」を思いだし、口ずさんでしまいました。

「探している時は見つからず、探すのをやめた時に見つかるのはよくある話」と陽水さんは歌いました。

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1.離れていることにも意味がある

11年間の教会生活を経て再婚されたのですから、信仰生活の勘所(かんどころ)をある程度はつかんでおられたと思います。
ですからご自分で思われるほど神様から離れた人生を送っておられたわけではないと思うのですが、いかがでしょうか?

11年間の教会生活と15年間の教会から離れた生活。
ここから学ばれたことも多くあると思われます。

2.キリスト教信仰の本質を理解しやすくなっている

聖書は「ある人々のように一緒に集まることを止めたりしないで、かえって『かの日』が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル教会への手紙)と言っています。

しかし「私は教会生活を送っていないから、神の御心にかなっていない」と考えるなら、それは律法主義であり、あやまった理解です。

15年の年月の中で「大切なことは多くない。いやひとつである」ということを理解なさったのではないでしょうか。

キリスト教信仰の本質は、自分の頑張りではどうあがいても救いに到達することはできず、ただ主イエスの十字架の贖いのゆえに「十字架は私のためであった」と信じるだけで救いに達し得るということです。

この本質がお腹のなかにストンと落ちるのに15年間は必要な期間だったのではないでしょうか。

3.新しい教会に通い始めるときに注意すること

何と言ってもカルト化した教会を避けましょう。
間違っても「お宅の教会はカルトですか?」などと聞いてはいけません(笑)。
カルトであればあるほど決して「はい、うちの教会はカルトです」などとは答えないからです。

4.健全な教会の見分け方

a.健全な教会には色んなな人がいる。

熱心な人もいれば不熱心な人もいます。
にぎやかな人もいれば静かな人もいます。
そして人をさばかないで、ありのままを受け入れています。

カルト教会の特徴は教会員全員が元気に見えるし、愛があるようにも見えるというところです。
しかしちょっと親しくなると、熱心でない人をさばきますし、疲れ切っているのがまる分かりです。
生き方が強迫的であり、物事に対する対応の仕方が一面的です。

b.問題がない教会が良い教会なのではない。

カルト化した教会ではみな洗脳されていますので、みんなが同じような対応をします。
これは見る人が見たら不自然きわまりないのですが、事情を知らない人には魅力的に見えます。

問題を抱えている人はこのような教会に居続けることはできません。
残っている人は自分で自分の重荷を背負うことのできる人ばかりです。
このような教会は本当の意味での教会ではありません。

c.説教において聖書の釈義がなされ、カウンセリング的な適応がなされている。

聖書の文脈に沿った解釈を全然無視し、一部分だけを切り取り、自分の言いたいことをその聖句に言わせているなら、その教会は健全な教会ではありません。

受けが良く、みなが笑ってばかりいる説教だからといって健全であるとは限りません。
また反対に堅苦しい説教スタイルだからといって聖書的であるわけでもありません。
説教を聞いてご自分で判断する必要があります。

◎心をすませて神の細き御声を聞かれてみてはいかがでしょうか。
そうしたら必ずご自分がどのようにしたら良いかが分かります。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    「離れていることにも意味がある」

    アーメン!!ハレルヤ!!素晴らしい!!
    これ、これ、これ、カルト化教会の被害者は、この言葉が聞きたいんです!!

    信仰による虐待で受けた傷の痛みにも、マインドコントロールの後遺症で苦しんだことにも、きっと意味があると思うんです。

    あゆままさん

    横からどうもすみません。
    御近所で通える教会が見つかりますように。
    教会も罪人の集まりですから、問題の無い教会は、この世にあっては無いとは思いますが、同じ主を信じる者同志が共に祈り、賛美し、聖書の御言葉に耳を傾ける幸いはあると思います。(問題アリまくりの教会に通っているお前が言うな!!←自分ツッコミ)

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      そうですね。すべてのことに意味があります。
      そして、それをあとになって知ることになります。
      それで私たちは予め信仰によって「必ずそうなる」と信じておく必要がありますね。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. あゆまま より:

    ありのパパさん、マッキーさん、ありがとうございます。

    「ご自分で思われるほど神様から離れた人生を送っておられたわけではないと思うのですが、いかがでしょうか?…この本質がお腹のなかにストンと落ちるのに15年間は必要な期間だったのではないでしょうか」
    もう、読んでいて涙がはらはら流れました。

    実は今も交流のある友だちは、牧師の一番弟子ともいえるご夫婦でしたが、いろいろあったようで自らこの教会を離れました。
    今はほかの教会で熱心に活動しています。

    私といえばもともと自分の時間がなくなることに抵抗感をもち「結婚で遠くへ行けば教会から離れる」ことに不安と同時にホッとしていたと思います。
    牧師のもと、霊の一致で奉仕や伝道に熱心なまっとうな教会でしたが、私がついていけなかったのです。

    しかしながら、結婚後の神を語れない人間関係はなんとも物足りなく(夫は私と出会ったことがきっかけで洗礼を受けましたが…)、また、結婚後にわかったことですが、夫とその家族は怒りの霊に憑かれているような人々で、教会生活ではいかに自分が世間に蔓延する悪意から守られていたかよくわかりました。

    すべてのことは時にかなって美しい

    きっと、神さま以外に救いを得ようとする私の中に、悔い改めてない部分、明け渡したくない部分があるのだと思います。
    神さまに聞いてみなくては、ですね。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、あゆままさん。
      コメントをありがとうございます。

      どうぞ、ご自分をありのままで受け入れられますようにと祈り願っております。
      のちの歩みも神様が適切に導いてくださいますように。

      あと、すいません。爺の戯言だと思って聞き流してください。

      ・自分の時間が持てないほど、奉仕に熱心な教会は健全な教会とは言えません。
      そんなに忙しくしている姿を人々が見て、「わたしもあなたのようになりたい」と思うでしょうか?

      ・怒りの爆発の問題は「怒りの霊」とは何の関係もありません。
      カウンセリング的アプローチで解決可能な問題です。
      あくまでも本人が良くなりたいと思わなければ如何ともしがたいですが、ご主人にこのブログの怒りの爆発関するページをお読みになるようにおすすめください。

      平安と祝福を祈っています。
      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. あゆまま より:

    ありのぱぱさん、ありがとうございます。

    夫の義父母は、自分に都合の悪いことはすべて人のせいにするたちで、また、自分の長男(夫)が思い通りにならないためにしょっちゅう争い、悪口を言い、内緒で次男の近くに家を建てて引越して行ったそうです。

    夫は今なら発達障害と診断されるであろう気質で、じっとしていられない、自分の思うようにならないと癇癪をおこす人です。

    私の実家や人間関係の中では、そういう人やそういう家族関係を目にしていなかったので、結婚してみて驚きの連続でした。

    私は、怒りをあらわにして暴言を吐いたり恫喝したりする人(夫・義理の息子二人・義父母)が恐ろしく、おびえて、怒らせないよう機嫌を伺って生活する癖がついてしまいました。
    実家が遠いので逃げ帰るわけにいかず、子どももできて経済力がないため離婚もできず、泣いて暮らしていました。
    一時期は神経内科にかかって精神安定剤を飲んでいました。

    必死に働いて、今では家業で実務を仕切る立場になり、以前よりは居場所を確保できていますが、基本の人間関係は変わってません。

    夫や義理の息子は「自分が変わらなければ」などとこれっぽっちも思ってません。
    彼らに対して怒りと憎しみを抑えられない時が多々あります。
    義父母は年老いて私を認めているので怖くはありません。

    というわけで、こういう環境に投げ込まれてかわいそうな私!と思っている自分、怒りに燃えている自分、こそが問題だ、ということは明確です。
    お祈りいただき本当にありがとうございます!

    • ありのパパ より:

      こんにちは、あゆままさん。
      コメントをありがとうございます。

      そうでしょうね。それまで目にしたことがなければビックリしますよね。
      私などは静かな人や家庭を見ると逆にビックリします(笑)。

      でも結局、人は色々なところを通って同じような感慨をもつに至るのかもしれませんね。
      どうぞ「こんな人々を相手にしていたら、自分が怒るのは当然」と考え、まず自分を認め、受け入れるところからスタートしましょうね。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  4. あゆまま より:

    ありのぱぱさん、ありがとうございます。

    そうでしょうね。それまで目にしたことがなければビックリしますよね。
    私などは静かな人や家庭を見ると逆にビックリします(笑)。

    ↑うけました!
    夫は「自分が父母や兄弟と仲良く談笑していると落ち着かない」そうです。怒っているときは生きている実感があるのでしょうね。だれにでもケンカを売って強がって自分を保って生きてきたんだなぁ、なんぎやなぁ、と思います。
    まあ、親せき関係はそれでよしとしても、仕事関係で気に入らない相手をことごとく切っていくので(もちろん相手が理不尽な場合も多いのですが)、間に立つ私はたまったものではありません。

    信仰の相談ではなく単なる愚痴になっている気がしますが…こういうことを包み隠さず書いてみると、自分のことを客観視できます。ありがとうございます!

    • ありのパパ より:

      こんにちは、あゆままさん。
      コメントをありがとうございます。

      そうなんですよ(笑)。誰かが怒り出したり、不和が起きると心のどこかで「やっぱり!」と納得する自分がいました。
      これを自覚的に変えていくことは難しく感じます。
      ただただ平和な環境にいる時間が立てば立つほど、「平和が当たり前」という理解になります。

      このコメントを読んでいて気づいたのですが、先日怒鳴った人がおられて非常にびっくりした自分がいました。
      かつては自分も怒鳴り、親も怒鳴っていたにもかかわらずです。

      「人は変わり得る」とはなんと希望に満ちた言葉でしょう。
      そのための道と道具を神様は用意しておられますから、それを使って最短距離で回復の道を歩ませていただきたいものです。

      平安と祝福を祈っています。
      またコメントしてください。お待ちしています。