カルト化と弟子訓練の問題

今日は皆さんとご一緒に、なぜ我が国においてカルト化の問題が後手(ごて)にまわったのかを考えます。

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1.なぜカルト化への対応が遅れたのか?

①自分の守備範囲でカルト化の問題が起きるとは思っていなかった。

日本に生きる福音派キリスト者にとってカルトと言えば、それはキリスト教歴史の中にときおり現れるものか、アメリカの変な人たちが起こす騒動ぐらいな認識でした。

歴史を学んでいるにもかかわらず、自分たちが生きている環境でそれが再現される危険がないと考えるのは余りにも脇が甘すぎます。
あるところで起きたことは、自分のところでも起きる可能性があると考えるのが賢い僕(しもべ)のあるべき態度です。

②カルト化には様々なタイプがあることを知らなかった。

一番はじめに問題になったのは浜松市にある教会でした。
この教会の牧師は豪腕で知られていました。
また教会の印象は伝道熱心で元気であるというものです。
それで問題が表面に出始めたとき、私たちはあろうことか「やんちゃが過ぎたのかな?」と全く的外れの考えをもってしまいました。

それ以前に「教会における牧師のリーダーシップを強化しなければ教会の成長はない」というのが福音派教会の共通認識になっていました。
それで暴力沙汰が漏れ聞こえるようになってもまだ「元気が良すぎた」というお門違(かどちが)いの印象を持ち続けました。

③人の心の有り様を知らなかった。

a.根本主義キリスト教会と福音主義キリスト教会のちがいとは?

我が国における福音派教会は、自らを福音主義キリスト教と名乗っていますが実体は根本主義キリスト教でした。
福音主義と根本主義の区分けは微妙な点もあります。
しかし明確な点もあります。

根本主義キリスト教はアメリカにおいて自由主義キリスト教が教会に浸食し始めたことに危機感を持った人々によって興されました。
彼らの特長は反知性主義でした。
自由主義キリスト教に対抗して聖書の霊感説を熱烈に擁護しつつ、進化論に対しても激烈な反対運動を展開しました。

このような根本主義キリスト教の行き過ぎへの反省に立って第二次世界大戦後に福音主義キリスト教が興りました。
これの特徴は各学問分野の成果を神の賜物(たまもの)として受け入れることです。
心理学分野の成果であるカウンセリングも受け入れますし、進化論の問題についても頭ごなしに否定することをいたしません。

はじめに述べましたように我が国の福音派教会の実体は根本主義的であったためにカウンセリングに対しても懐疑的でした。
そんな面倒なことをしなくても「御言葉を信じて信仰に立てば良い」というのが本音でした。
それでカルト教会の被害者がいくら訴えても聞く耳を持たなかったし、聞いても理解する能力がありませんでした。

b.カルト被害者への不適切な対応の原因

典型的なのは「なぜ自分の教会の悪口を言いふらすのか?」というものです。
これは一旦、洗脳状態にされてしまうと誰かがそれを解除してくれない限り自律的な判断や行動が阻害されるというカウンセリングでは当然の理解が出来なかったためでした。

まちがった教えで洗脳された者は、正しい教えで洗脳を解除してもらうほかはありません。
しかし自分では正しい教えが何か知りませんし、見分ける力もありません。
それで有名な教会の牧師に助けを求めることになります。
しかしその牧師たちは、問題を起こした牧師と「お友達」であり、カウンセリング的対応が何かも知りません。
その故に彼らはあり得ないような対応をとってしまい、カルト教会の被害者の傷口に塩を擦り込むことになってしまいました。

2.弟子訓練のこと

浜松の教会の次に起きたのは日本における弟子訓練ムーブメントの不祥事でした。
これの関係者から漏れ聞こえてくるのは「弟子訓練そのものは良いものだった」というものです。
本当にそうでしょうか?

ありのパパの考える弟子訓練の問題点は以下の通りです。

①神の作品として人を見ず、兵隊としてみる視点

弟子訓練はキリスト者を人間としてみる視点よりも弟子(兵隊)としてみる視点を優先しています。
だからこそ「兵隊を俺の好きなように扱って何が悪い」という発想に繋がったのではないでしょうか。

キリスト者を弟子と見る視点ではなく、神の作品である人間としてみる視点がどうしても必要です。
神に愛され、神に生かされ、神に人生を導いていただくのは、兵隊になるためではありません。
私たちが神によって造られた神の創造物だからです。

弟子訓練には、このような視点が決定的に欠けています。
あるのは「救われた私たちがどのようにして神に用いられる人になるか?」という発想です。
この発想は一見良いもののように見えますが、そうではありません。

②値なしに救われた者が、なぜもう一度救われようとするのか?

a.律法を守ることによって満足を得ようとしている。

キリスト教の原点は「自分の力では救いに到達し得ないことを悟った者が、十字架の福音を信じることによって遂に救いに到達できるのだ」というところにあります。

律法を守ることによっては決して救いに達し得ないというのが聖書の教えです。
律法から福音へ生き方の転換を果たしたのがキリスト者であるにもかかわらず、気が付いてみるともう一度「どうしたら主の御心にかなう者になれるか?」と一生懸命になっているのです。

b.我力で主の御心にかなう者になろうとすることを律法主義という。

聖書は言います。
「我力によっては決して主の御心にかなう者になれない。そうなれないあなたに変わってキリストが十字架に掛かることによってあなたの負債を支払ったのだ」
そうであるのに、なぜあたかも自分が主の御心にかなっていない者であるかのように、再び主の御心にかなう者となろうとするのでしょうか?

これはやはり人間のうちにある肉性、すなわち自分の力で救いに到達することを願う肉の心があるからです。
このような我力によって救いに到達しようする思想である律法主義に心を奪われてしまうと人生を棒に振ることになります。

エルサレム教会もあれほどの興隆を誇ったにもかかわらず、律法主義に妥協したためキリスト教歴史の中から消え去ってしまいました。
エルサレム教会でさえそうであるならば、私たちにも同様のことが言えます。

c.弟子訓練ムーブメントの問題点

・キリスト者を神の作品である人間としてみる視点よりも弟子としてみる視点を優先している。

・弟子訓練に励む動機には自分で救いに到達しようとする律法主義が潜んでいる。

この二点を考慮した上でもなお、弟子訓練の思想は生き残ることが可能でしょうか?
ありのパパは大変懐疑的です。

◎すべてのキリスト者が聖書の正しい理解に立って、キリスト者(人間)を神の作品としてみる視点と、自分の行いによっては救いに到達できず、キリストの十字架を信じることによって努力なしに御心にかなう者になることができるという信仰をもたれるようにと祈り願います。

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コメント

  1. ことで より:

    はじめまして、ありのパパさん。
    五、六年前にスカイプにて相談していただいたものです。
    アダルトチャイルドのことでです。
    私は今札幌にすんでます。40代です。
    福音派の教会に通っていました。
    教会に通うのをやめました。一年位立ちます。
    離れみればみるほどカルト化したなかにいたことがわかります。
    息子は元気にチャーチスクールに通い、主人は何も思わないで教会にかよってます。
    謎です。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、ことでさん。
      コメントをありがとうございます。

      またコメントしてください。お待ちしています。
      実名を記されておりましたので、ニックネームに変更させていただきました。
      ご了承ください。

  2. マッキー より:

    ありのパパさん

    万感、胸に迫る思いです。

    1、献金の強要
    2、奉仕の強要
    3、伝道の強要

    在籍期間は短い間でしたが、いろいろありましたね…。

    まぁ、済んで終えば直接カルト化教会に通っていたのは、貴重な体験をできたとも思えますが、マインドコントロールの後遺症や信仰による虐待で受けた傷の痛みに苦しんでいる人(おまえは違うのか?←自分ツッコミ)のことを考えると、そんな呑気なことばかりも言っていられません。

    6月にカルト化教会被害者を支援する会の講習会に初めて出てみて愕然としてしまいました。
    マスコミの記事や牧師や信徒による牧師や教会の不祥事を告発するブログ記事など、啓発活動が効果をあげて、教会のカルト化問題はもう過去の話に成りつつあるのかと思っていたら大間違い!!
    20代と見える参加者(カルト化教会クリスチャン2世か?)もいて、問題の根深さを痛感しました。

    人口減少、クリスチャン人口の減少→カルト化教会の衰退→繁栄の神学、韓国発の弟子訓練に影響を受けていない世代による信仰復興、なんてことを夢見ている今日この頃です。
    平成生まれの世代に期待です。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、マッキーさん。
      コメントをありがとうございます。

      そうですね。カルト化の問題は終わってはいないですね。
      マッキーさんのような方の存在が多くのカルト被害者にとって励ましになります。

      またコメントしてください。お待ちしています。