気が変になったと思われるほど本気にならないと成功はおぼつかない

「こんなことを言うと、私(パウロ)は気が変になっていると思うかもしれない」[コリント教会への手紙第二05:12]

いったいパウロはどんなことを言ったので、人々に気が変になったと思われたのでしょうか?
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.止むに止まれない宣教の動機

「こういうわけで、私たちは主を恐れることを知っているので、人々を説得しないではいられない」[11節]

なぜ人々を説得すると、他の人に気が変になったと思われるのでしょうか?
それは「私たちクリスチャンは、だれでもやがてキリストの裁きの座の前に立って、地上生活の間、思いと言葉と行いにおいて何をしたか、正確に評価され、それぞれ報いを受けななければならない」からです。

これはすべての人が自分の罪に応じて裁かれる最後の審判とは違います。
そうではなく救われて罪赦されたキリスト者が、委ねられた神との和解という福音の宣教にどれだけかかわったかについて、神から正確な評価を受けると言っているのです。

「おったまげた!だったらクリスチャンになるの止めた!」と言われますか?(笑)
この福音の宣教は重荷とはならず、却って私たちにとって栄光に輝く喜びとなります。
なぜならキリストの十字架は私の罪のためであり、私を救うためであったと信じた私たちは、自分自身の中に神との和解を体験し、さらに心が新しく作り変えられ続ける体験の初発(しょはつ)を経験したからです。

2.本物の教師と偽(にせ)教師

パウロは精力的に、しかも忍耐深く、人々にキリストを信じることによる神との和解の福音を信じるように説得しました。
その結果としてコリントの人々が信仰に入り、コリント地方に教会が建て上げられました。

片方でパウロのように熱心に人々を説得する者もいれば、もう片方には「上辺だけで誇っている偽教師」もいました。
偽教師という言葉にはいろいろな意味が含まれますが、このところでの偽教師という言葉には「自分は人々が救われるためにちっとも労していないにもかかわらず、どうでもいいようなことで自分を誇っている連中」ということになるでしょう。

3.宣教における真摯(しんし)さと熱心さと

パウロは人一倍「真実は何か、大切なことは何か」を重要視する気風が強かったようです。
さて、私たちはどうでしょうか?
「うん、私クリスチャンなの。でも絶対押しつけないからね。安心して」なんて言っていないでしょうか?(笑)
私たちは確信をもって、そして謙遜に「キリストが私の罪のために死んでくださったこと、そしてキリストを信じたら心が新しく作り変えられたこと」を人々に宣べ伝えたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    御早うございます。私は

    「うん。私はクリスチャンです。だから、別の宗教に勧誘しないでください」

    くらいの消極姿勢です。

    もう一生分、個人伝道はしたと思うので(勝手に決めるな!!←自分ツッコミ)時折「神様、救いに導かれる魂が決まっているなら、私ではなく別の誰かを用いてください。もう少しまともなクリスチャンに導かれ、もう少しまともな教会に導かれますように」(なんちゃって予定説)と、熱烈に祈っております。例外も最近ありましたが…。

    あとは、信仰告白しまくりの子供に、もう少し成長したら洗礼を勧めるだけです(これはもう伝道とは呼べない)

    こんな、なんちゃってクリスチャンでヘタレ信徒の私ですが、神様が私を諦めないので、私自身も私を諦めないんです!?(ここでその話を適用するな!!←自分ツッコミ)

    • ありのパパ より:

      こんにちは、マッキーさん
      コメントをありがとうございます。

      おもしろい!
      いつもながらマッキーさんのコメントはユーモアに満ちておられますね。
      神様がマッキーさんのご生涯を祝福し、用いてくださいますように。

      またコメントしてください。お待ちしています。