無力を認めることには瞬時的な面と漸進(ぜんしん)的な面の両面がある。

ステップの1だけは完全に理解することが必要であると、回復施設では教えられています。
これは無力を認めるということの瞬時的な面を表しています。
では私たち依存症者は日々の生活の中で、どのようにして無力を認めていけばよいでしょうか?
これが無力を認めるということの漸進的な面です。

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1.「無力を認める」ということの漸進的な面

日常生活を送る中で私たちは繰り返し無力を痛感する体験をします。
「やっぱり治ってないんだな」というわけです。

依存症は治らない病気なのですから、治ってなくて当然なのですから、少しも落胆する必要はありません。
しかし私たちは少し調子がよいと心の中で「治ったんじゃね?」と考えてしまいがちです。
そして回復の道を歩んでいるだけで、決して治ってはいない現実を見せつけられる出来事に遭遇(そうぐう)します。

2.落胆する理由

理由はふたつあります。

a.思い込みが強いからです。

回復しているのにすぎないのに治っていると思い込むからです。
「依存症は治らない病気」とは決して根拠のない主張ではありません。
医学的にも、脳の報酬系という部位に「快楽を得るために、ある特定の行為を強力に命じる回路」が出来てしまうと、それは生きている間はなくならないと言われています。

b.謙遜さを学ぶためです。

霊的目覚めを得た人々が続けてミーティングに参加することを求められているのは、なぜでしょうか?
これはサービスを運ぶだけでなく、自分の回復を維持するためでもあります。

自分一人でソブラエティを守っていると、どうしても「自分も大したもんだ」と思いがちです。
それがミーティングに参加すると、来る日も来る日も依存症のためにぼろぼろになった人々が訪れます。
この人々の分かち合いを聞いていれば、いやが上にも自分が無力な存在であることを確認させられます。
これは私たちのソブラエティ(しらふ)の維持にとって必須のことです。

3.認めて・信じて・お委ねする

12ステップに取り組む過程で、自分の無力を認めるということがお腹の中にストンと落ちる経験をしなければなりません。
そうでなければ本当の意味で12ステップに取り組んでいるとは言えなくなります。

なぜそんなことが言えるのでしょうか?
ある依存症からの回復施設の職員の方が次のように仰っていました。

「ステップの4と5で疲労困憊(こんぱい)し、6と7で途方に暮れ、8と9でいい気になる」

ステップの4と5は自分自身の棚卸(たなおろ)しであり、6と7は自分の短所を神に取り除いていただくことであり、8と9は自分が迷惑をかけた人々に埋め合わせをすることです。

我力(がりき)でやろうとするから疲労困憊したり、途方に暮れたり、いい気になったりするのです。
自分の無力を認めて『神の恵みによって』12ステップに取り組むなら、そんなことになろうはずもありません。

先の施設職員の方はこうも言われました。
「自分の力でやろうとせず、12ステップに取り組むすべての段階において神の恵みを知る体験とするのです」

4.ステップの1と2はセットになっている

自分が対人関係において失敗したとき、私たちは気落ちしたり、自己嫌悪に陥ったりします。

かつてありのパパにカウンセリングを教えてくださった方が「傲慢だから、傷ついたり、気落ちしたりするのです」と言われたことがありました。
ありのパパはお腹の中で「なんと愛のないことを言うのか!それでもカウンセリングの指導者か!」と思ったものでした。
しかし何十年も経った現在、やっとこさ、この言葉の意味が分かりました。

気落ちしてもよいのです。
というか、気落ちしないでおこうとするのは、それこそ傲慢です。
問題はその次です。
即座に自分自身に向かって「気落ちしてる場合じゃない。神が私に自分が無力であることを忘れないように教えてくださったのだ。だからこそ自分を超えた大きな力を信じる必要があるのだ」と言い聞かすのです。

◎ステップ1の無力を痛感するだけでは私たちは卑屈(ひくつ)になるだけです。
左手で自分の無力をつかんだら、右手で自分を超えた大きな力をつかむのです。
このように物事を受け止めていくとき、失敗が失敗のままで終わることは決してありません。
失敗は私たちの回復を促進させる燃料になるのです。
平安と祝福を祈っています。