聖書の教えと教会の教えと依存症と

今日は皆さんとご一緒に教会が教えていることと12ステップが教えていることの違いについて考えます。

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1.聖書の教え

①飲酒についての聖書の教え

もっとも明確に飲酒について聖書が語っている箇所は新約聖書のエペソ教会への手紙5章18節でしょう。

「酒に酔ってはなりません。むしろ御霊に満たされなさい」

ここには明確に「飲むな」ではなく「酔うな」と書かれてあります。
この箇所から絶対禁酒の教えを引き出すのは超ウルトラびっくりの三回転ジャンプでもしない限り無理です(笑)。

②マスターベーションについての聖書の教え

聖書には直接的な記述はありません。
ただ旧約聖書にオナンという人が精液を地に漏らしたという記述があるのみです。
(このオナンという人の名前がオナニーという言葉のもとになったと言われます。)

しかしこの聖書箇所はオナンがマスターベーションをしたこと自体を非難しているわけではありません。
ですから、この箇所から「聖書はマスターベーションを禁止している」という教えを導き出すことは聖書に忠実な信仰とは言えません。

2.12ステップが教えていること

①飲酒について12ステップが教えていること。

アルコール依存症になった人には再び酒を飲む自由はありません。
一滴でも再飲酒するなら、地獄が口を開けて待っており、そこに真っ逆(まっさか)さまです。

②マスターベーションについて12ステップが教えていること。

性依存症の回復を目指すグループにはおもなものがふたつあります。

ひとつは一旦性依存症になったら、パートナー以外とのあらゆるセックスは命取りになると教えます。

もうひとつの方は、ケースバイケースであり、マスターベーションがアル中における再飲酒に当たる場合もあるし、人によってはそうではない場合もあると教えています。

(ここからは、ありのパパの個人的理解です。)
一旦性依存症になったら、マスターベーションがアル中における再飲酒の役割を果たしてしまう危険が非常に大きいと考えています。

3.依存症でない人はどうしたら良いか?

①飲酒について

ある依存症からの回復を目指す施設の方がこう仰っていました。

「アメリカ福音派教会の運動によって禁酒法が成立しました。
その結果としてマフィアが暗躍するなどのマイナス面もありました。
しかしこの期間にはアルコール依存症になる人が少なかったのです。
これは確かに禁酒運動の成果であると言えます」

そういうわけで福音派教会が教える絶対禁酒の教えにはある程度の合理性があるということができます。

しかしそれにしても聖書を誤りのない神の言葉と信じる福音派教会が聖書に書いていないことを教えているということに関してはどうなのか?という気はします。

②マスターベーションについて

十代・二十代の若者たちが教会の教えによってマスターベーションを罪悪視し、その結果としてマスターベーションを止めることができない自分を裁くということがあります。

この問題をどう考えるかですが、ありのパパは何も問題はないと考えています。
ただ結婚しているにもかかわらずマスターベーションを止めることができない場合は、性依存症を疑ってみることが必要でしょう。
また(個人差がありますが)中年・老年の域に達しているにもかかわらずマスターベーションを続けているというような場合も同様です。

◎今日は微妙な問題を取り扱いました。
しかし大切な事柄ではあります。
この問題について正しい理解をもって歩みたいものです。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. マッキー より:

    ありのパパさんへ

    本当に微妙な問題ですね。

    ①飲酒について

    お酒を飲んじゃってる私が言うのもなんですが、ありのパパさんが仰っている通りだと思います。パウロがテモテに少量のぶどう酒を勧めている箇所なんかもありますしね。ただ、箴言だったと思いますが、「祭司は杯からこぼれるぶどう酒を見てはならない(ってことは飲むのもダメか?)」って箇所もありますし、まぁ、私が思うに、
    アルコール飲料はただではないので、

    1、もともと飲んだことがない人は、そのまま飲まない方が良いと思います。

    2、飲まないでいられる人は、飲まない方が良いと思います。

    3、飲まないではいられない人は、ほどほどを意識した方が良いと思います。

    4、飲んで社会生活に支障をきたしてしまう方は、ありのパパさんに相談された方がよろしいかと思います。あれ?ありのパパさんに相談メールが殺到しても困るかも知れないので、なるべく自助グループに参加して、12ステップに取り組むなどした方がよろしいかと思います。

    ②マスターベーションについて

    この件に関しては、だいぶ見解が異なります。イエス様が

    「情欲を抱いて女を見るものは、姦淫の罪を犯したのです」

    と言われているからです。罪悪感を感じるのは、むしろ健全な証だと思います。未信者は、みじめさを感じてもあまり罪悪感は感じないと思います。(私の若かった頃の場合)

    十代、二十代の若者には、第一ヨハネ1章9節などから、誘惑に負けて罪を犯してしまったとしても、十字架による罪の赦しと汚れからの清めを説いた方がよろしいかと思います。その上で「問題ない」とするなら大賛成です。

    高校生の頃を思い出しました。毎日誘惑に負けていたので、毎日十字架による罪の赦しを頂いていました(笑)。一日しないだけで大勝利、二日しなければ大大勝利でした。こんな証を臆面も無くして、イエス様を信じた同級生もいました!!

    若いって、それだけでもうなんだか…。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、マッキーさん。
      コメントをいただき、ありがとうございます。
      いまから風呂に入って寝ようとしていたのですが、あまりにコメントが面白すぎて、つい反応してしまいました(笑)。

      そうですね。すべての人がマッキーさんのように気にしない人なら何の問題もありません。
      しかし実際はそうではありません。
      本当に聖さへの道を歩んでいるのか、それとも単なるクリスチャンごっこをしているのに過ぎないのかどうかは、その時点ではなかなか分からないところがあります。

      ただ、正しい聖書解釈とは聖書の一ヶ所から元々自分が言いたかった結論を導き出すことではありません。

      飲酒について一般的な原則を導き出すのに旧約聖書から引用するのは適切でしょうか?
      またマスターベーションが罪であるという主張を「すべての人は罪をおかした。それゆえに神からの栄誉を受けられなくなっている」ということを教えようとしている箇所から導き出すことは果たして正しいことでしょうか?

      穏やかな心で再考をお願いしたいと思うことです。
      とは言え、『明日のことは明日に心配させておきなさい。心に掛けるべきことは今日一日を精一杯生きることです』と言われた主にならって、今日一日を生きることができたことに感謝を献げ、それで万々歳としましょう。

      またコメントしてください。お待ちしています。