主に似た者に「されていく」のと「なろうとする」ことの違いを知るのが肝心です。

主に似た者と「されていく」ことと「なろうとする」ことの違い。
これがクリスチャン生涯の明暗を分けてしまう原因です。
今日はこの問題を皆さんとご一緒に考えます。

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1.パウロのキリスト教理解とは?

「栄光から栄光へと進み、主に似た者とされていく。これは御霊であられる主がして下るのである」[Ⅱコリント教会への手紙3章18節]

この箇所を読むと、パウロがキリスト教を一体どのように理解していたのかを明確に知ることができます。
彼は間違っても「信じても、そんなに変わらないよ」とか「罪人なんだからさ、聖い人生なんか、無理、無理!」とは言いませんでした。

かえって「主に似た者となる」と約束しているのです。
主とはキリストを指しています。
ですから「主に似る」とは「キリストのご人格に似た者となる」という意味なのです。
だれですか、「うへっ!?そんなの無理」って心の中で思っているのは(笑)。

2.教会は聖化のメッセージを正しく教えたか?

教会はこのメッセージを適切に教えることに失敗しがちであったと、ありのパパは考えています。

なぜなら前提条件や詳しい説明なしに、ただ「お前たち!主に似た者となるんだぞ~!」とやられれば、人は間違って受け止めるのが普通だからです。
そして悲しいことに真面目な人ほど誤解します。

3.キリスト教の本質とは何か?

キリスト教の入信の前提は、自分が罪人であることを認めることと、悔い改めて、主を信じることです。

罪人であることを認めるとは、言葉を換えて言うなら「自分が無力であることを認める」ことです。
ですから「無力を認めた人」が「聖人になろう」と努力すること自体が、矛盾(むじゅん)した行動ということになります。

しかし真面目な方は次のように考えます。
「救ってくださってありがとうございます。この上は何でも言うことを聞きます。何でも言ってください。」
それで「主に似た者とされていく」と言われると、脳内変換をして「主に似た者となれ!」という命令として間違って受け取ってしまいます。

この間違いを知らず知らずのうちに犯してしまっている方がとても多いように感じますが、あなた様はいかがでしょうか?

4.「治る」ことと「回復する」ことの違い

ある人は次のように仰います。
「それゃ、無力かもしれないが、聖人になる努力ぐらいしたって罰は当たらないだろ!」
たしかに罰は当たらないかもしれませんが、呪われるでしょうね(嘘嘘)。

「罪人が聖人になる」
これは依存症者が回復ではなく、治ることを目指すのと似ています。
依存症者が治ろうとしているときは、目がギトギトして血走っています。
根拠もないのに自信満々で「いや、治るから!」
(周囲の反応)「治るって、なんだよ!」

それが万策尽(ばんさくつ)きて「依存症は治らない病気。しかし回復は可能。だから回復に専心しよう」という告白に導かれるとき、依存症者は回復の軌道に乗ることができます。

これをキリスト教信仰に適用すると、どうなるでしょうか?
それは「私は罪人です。一生罪人のままです。しかし罪から回復することは可能です。だから回復に専心します」ということになります。

◎私たちお互いは的外(まとはず)れな人生を送らないようにしたいものです。
なぜなら「的外れ」という言葉こそ「罪」という言葉の語源なのですから。
平安と祝福を祈っています。

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