私たちの信仰はアクセサリーでもなければ、御利益信仰でもない。

(Ⅰコリント15章)

スポンサーリンク

1.救いと復活の関係

コリント教会への手紙第一の15章には「福音(ふくいん)をいい加減な気持ちで信じたのでないなら、その福音を堅く信じていれば必ず救われる」と書かれています。
そしてその証拠としてキリストの復活があげられています。
キリストが復活されたということは死人の復活があるということです。
そして死人が復活するということはつまり私たちもまた復活するということを意味しているのです。

そのゆえに『死人の復活』という問題に対して「あるかもしれないし、無いかもしれない」というようなあやふやな態度であってはなりません。
もしキリストが復活していないとするなら、私たちはいまだに罪の中にいることになります。
そうだとするなら私たちはこの世の中でもっとも惨(みじ)めな人ということになります。

2.最初のアダムと最後のアダムであるキリスト

最初の人であるアダムによって人類に死が入ってきたように、最後のアダムであるキリストによって死人の復活がもたらされました。
すべての人がアダムの子孫として死ななければならなかったように、キリストを信じるすべての人が皆復活します。
キリストは確かに死人の中から復活されたのであり、キリストを信じる人々もやがて復活するのです。

復活の順番は次の通り。
第一の復活はキリスト。(これは既に起きました)
第二の復活はキリスト再臨の時のクリスチャンの復活。

そしてキリストがあらゆる敵を滅ぼし、国を父である神にお渡しになります。

3.死者のための洗礼のこと

当時の人々の間には「死んだ人のためにバプテスマを受ける」という奇妙な習慣があったようです。
パウロはこれをさして「未信者であっても、このように死人の復活を信じているのだ」と述べています。

これは決して「死者のための洗礼」を認めていることを意味していません。
ただ単に、そのような奇妙な習慣があると言っているのに過ぎません。
この箇所から異端的な見解を導き出すようなことをしてはなりません。
聖書は全体として何と言っているかをいつも考えに入れる必要があります。

4.復活と命がけの伝道の関係

復活の希望があるから、命がけの伝道ができるのです。
もし英雄主義や熱狂主義によって伝道したのなら、それは全く無益なことです。

死んだ者が復活しないのなら、私たちは結局のところ虚無主義者のように「明日はどうせ死ぬのだから、今日をおもしろおかしく生きていけばよい」ということになります。
思い違いをしてはなりません。
心の目を覚まし、正しい生活をして、罪を犯さないようにしなければなりません。
これ以外の考えを持っている人は、正しい聖書知識を持っているとは言えません。

◎コリント前書を読んだ感想をブログに書こうと思いましたが、聖書の本文そのままでも十分現代の私たちにも理解できることに気づきました。
それで今日は聖書本文をそのままブログに載せました(手抜きじゃないですよ(笑))。
平安と祝福を祈っています。

スポンサーリンク