聖書信仰と聖書を正しく解釈することは車の両輪の関係

「リベラル派教会と福音派の対話(その1)」という記事にコメントをいただきました。
そして「什一献金のこと(その2)」という記事にもコメントをいただきました。
今日は皆さんとご一緒に、そのコメントにお答えする形をとおして、この問題を考えてみます。

「リベラル派と福音派の対話」には、心では熱く主イエスを愛するが、聖書は批判的に受取るという趣旨のコメントがつきました。
「什一献金のこと」には、什一献金を疑うこともなくやってきたが、貧しい人々に対する配慮をしてこなかったという趣旨のコメントがつきました。

〇まず聖書を批判的に受取るという考え方から見ていきます。

心では熱く主イエスを愛するが、聖書は批判的に受取るという生き方は、現代にあっては一見まともな考えにも思えます。
しかし実際にそれをやってみると、キリスト者としての生き方は必ず破綻します。
なぜなら、
それは世俗主義だから。
それは二元論だから。
それは心と頭に緊張関係をもたらすから。

一つ一つ見ていきましょう。

スポンサーリンク

1.世俗主義とは何か?

世俗主義とは信仰を心の中のことだけに限定し、自分の生き方や社会の問題にたいしては信仰とは異なる対応の仕方をするという考え方です。
パウロは「もし私がこのような生き方をしていたら、激しく反対されることも迫害されることもなかっただろう」と言いました。

なぜ聖書が書かれたかと言えば、それは人間という存在は放っておいたら知らぬ間に世俗主義に陥る存在だからです。
聖書の支えなしに神の愛のスピリットをもって生きていくことが出来るほど私たちは強くありません。

2.二元論的信仰とは何か?

二元論的信仰とはこれが出来たら合格、これが出来なかったら不合格という生き方です。
それはまた律法を守ることによって救われようとする生き方でもあります。

これに対して一元的生き方とは、これが出来ても出来なくても合格という生き方です。
一元的生き方が可能であるのはキリストの十字架によります。
キリストが私たちの代りに合格するのに足りない分を十字架に掛かるという行為によって支払ってくださいました。

〇それで私たちは『信じるだけで救われる』という恵みをいただくことができました。

3.心と頭を切り離してはならない

心では神を愛し、頭では聖書を批判的に受取るという考えはまことに結構な意見にも見えます。
しかしこのような考え方・生き方はいとも容易に世俗主義・二元論的信仰に変質する危険があります。

なぜなら頭と心を切り離すことは本来はできないことだからです。
そのできないことをやろうとした人たちが作り出したものが世俗主義であり二元論的信仰なのです。
このような信仰に墮した人々は結局燃えるような熱い信仰も失うことになりました。

4.聖書の正しい解釈ができない二つの理由

一つは共感能力の不足です。
もう一つは考える訓練の不足です。

①共感能力を働かそう。

感じない心のままで聖書を読むと腑(ふ)に落ちないことばかりです。
聖書に登場する人が、自分だったら自分はどのように感じただろうかと思いつつ、聖書に当たることが大切です。

②考える訓練をしよう。

たとえば「奴隷は主人に従え」と書いてあるから、聖書は奴隷制度を認めているし、自分や誰かが奴隷を酷使することも正当であると考えるのはあまりにも愚(おろ)かに過ぎます。
聖書の他の箇所で「もし自由人になれるのなら、ためらわず自由の身になりなさい」と書いてあることはどのように解釈するのでしょうか?

〇「聖書は全体として何と言っているか」を考えることが生命的に重要です。

5.聖書の正しい解釈の方法とは?

(ここでは「什一献金のこと」へのコメントにお答えします。)
旧約聖書から什一献金を見ると、二つのことが分かります。
一つは律法が与えられる前にすでに什一献金は存在していたということです。
アブラハムが戦いに勝利して帰還した際にメルキゼデクという祭司が出迎えました。
アプラハムはこのメルキゼデクに対して戦利品の什一をささげています。
これは律法が与えられるはるか以前の出来事です。

律法が与えられてからは、什一献金規定は律法の中に組み入れられました。

キリストの十字架によって律法が成就した新約時代に生きる私たちは、什一献金に対してどのような態度をとることが聖書的であると言えるでしょうか?
ありのパパの理解では律法としての什一献金規定は廃止されたと考えています。
しかし律法が与えられる以前から什一は存在していたのですから、什一献金そのものは残っているとも考えています。

ある教会では「什一をしないのは泥棒と同じ」とか「什一をしない人に物質的祝福はない」と教えます。
これは什一献金を律法としてとらえていることの何よりの証拠です。

〇要するに什一献金はしたい人はすれば良いし、したくない人はしなければよいのです。

◎聖書をどのように解釈すれば良いのかという問題は非常に大切な問題です。
この問題から安易に逃げ出そうとせず、しっかりと踏ん張って、聖書の正しい解釈の仕方を身に付けていただきたいと願ってやみません。
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. 花子 より:

    早速のお返事感謝します。花子です。

    聖書の解釈を都合よく1人で勝手にするのはまだいいですが、立場(私の中では上下がある事自体疑問です)のある人にされると、たくさんの人が被害にあいますね。
    絶えず祈る、大切ですね。

    ありがとうございます。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、花子さん。
      コメントをありがとうございます。

      そうですね。ぺテロの手紙にあるように聖書に私的解釈を施してはなりませんね。
      ただ、キリスト教は万人祭司ですので、すべての信者に聖書が開かれてあります。
      単純に聖書を繰り返し読むことによって、聖書本来の意味を読み取ることは(簡単ではありませんが)可能です。
      一人一人が自律した信仰者になることが生命的に重要なことだと思っています。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. 伊作 より:

    ありのパパさん、初めまして。伊作と申します。
    ペンテコステ派(コテコテでは有りません)です。

    実は什一献金を検索していたらこちらにに辿りつきました。
    検索の結果(明らかになったことは)、リベラルでも福音派でも見解が割れるということです。
    私が尊敬している福音派の牧師も献金の件について言及されています。
    ありのパパさんも彼の見解を聞いて頂きご感想を頂けたらと思います。
    宜しくお願い致します。

    • ありのパパ より:

      こんばんは、伊作さん。
      はじめてのコメントをありがとうございます。

      申し訳ありませんが、一部意味が通じにくい部分がありましたので、多分こういうことを仰りたかったのだろうと推測して改編しました。

      あとリンクの部分を削除させていただきました。
      当ブログは無名性の原則に基づいて運営しています。
      実名を明らかにしている方の紹介についてはお断りしています。
      詳しくはメニューの「コメントしてくださる方へ」をご覧ください。

      献金については当ブログのサイドバーにあるタグから「什一献金」をクリックしていただくと、お読みいただくことができます。

      これからもよろしくお願いします。
      またコメントしてください。お待ちしています。