偶像にささげた肉の何が問題なのか?

(コリント10章)

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①微妙な問題に対する解決のフレームワーク

私たち日本人は考えない民族であると言われています。
要するに言われたことを考えずに実行するということです。
これは一概に悪いことだとは言えません。
なぜなら聖書には「問わず従う」という教えがあるからです。

アブラハムは神に息子のイサクをささげるように命じられたとき、躊躇(ちゅうちょ)することなく翌日の早朝に神に命じられたことを実行しました。
(もちろんこれはアブラハムが何にまさって自分の無力を認めるかどうかのテストだったのであり、そのアブラハムの真実が確認された時点で、このテストは中止されました。)

ではいつでもどんな場合でも「考えないで従う」ことが良いかというと決してそうではありません。
パウロは「ユダヤ人が宗教に熱心であることは認めるが、その熱心さは聖書の正しい理解に基づいていない」と言いました。

〇人生のなかで起きる大半のことはトライ&エラーを繰り返しながら神の意志に到達するというやり方に従う必要があります。

②偶像にささげられた肉は食べてもかまわないか?

「偶像にささげられた肉を食べて良いかどうか?」ということが、当時のコリント教会員の間で問題になっていました。
これはたぶん律法を守ることに熱心なユダヤ人クリスチャンの影響を受けたものだと思われます。

この微妙な問題に対してパウロは次のように答えています。

「未信者の家に招かれて食事を出されたら、その肉の出所(でどころ)を聞くことなく全部食べてしまいなさい。しかしもし誰かが『その肉は偶像にささげられた肉だ』と言うなら、その人の良心のために食べてはならない。」

a.パウロはまず原則を述べます。

それは偶像神などは実際には存在しないものであるから、そんな存在しないものに食物を捧げたからといって、食物が汚染されるわけではない。
だから未信者の家庭に招かれて食事が出されたら、その時は肉の出所を話題に出すようなことをせず、黙って全部食べてしまいなさい。

b.次に現実への適用に移ります。

もしその場に偶像に捧げた肉を食べることに良心の呵責(かしゃく)を感じる人がいたら、その人を傷つけないために、その肉を食べてはならない。

c.このアプローチにも欠点はあります。

それはユダヤ人クリスチャンのために肉を食べないという選択をすると、結果として未信者の好意を台無(だいな)しにしてしまうということです。
未信者は心の中でこう思うでしょう。
「なんという奴らだ。人の好意を踏みにじりやがって!」

しかしそれでもパウロはその未信者が信じるか信じないかは誰にも分からないことであるし、律法を守ることに熱心という間違った理解をしていたとしてもユダヤ人クリスチャンが救われていることに変わりはない。
だとしたらイエスが命をかけて救ってくださった人々をつまずかせることは決してできないと考えたのです。

〇これがパウロの問題解決のフレームワークです。

➂私たちはこのフレームワークを現代の問題にどのように適用出来るか?

a.モハメッドを風刺すること

イスラム教のモハメッドを風刺することをパウロの問題解決のフレームワークに照らし合わせてみると、どうなるでしょうか?

未信者の出版社がモハメッドの風刺マンガを載せても、キリスト教会としてはそれに反応しない。

しかしイスラム教の人々が「この風刺マンガは私たちにとっては耐えられない悲しみである」と言うなら、イスラム教徒の良心のためにその風刺マンガを擁護することに賛成してはならないということになります。

○パウロの原則は『相手につまずきを与えないようにする』ということです。

b.この問題はもう一つの重大な問題を含んでいます。

それはイスラム教原理主義者は、モハメッドを屈辱していると自分達が判断するなら誰であっても殺して構わないと考えていることです。

問題の核心が相手をつまずかせないことにあると言っても、それとこれとは話が別です。
問題を一緒くたにすることはできません。
ただこの問題に関しては平和を愛するイスラム教徒が苦しんでいます。
この方々のためにも宗教の創始者を屈辱するようなことを許してはならないと考えます。

◎パウロは私たちクリスチャンには完全な自由があると言っています。
完全な自由とは何をしても構わないということです。
しかし全部が全部益になるとは限らないし、教会のためになるとは限らないとも述べています。
平安と祝福を祈っています。

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